「写真家・草森紳一」を紹介するWEB連載が、「白玉楼中の人 草森紳一記念館」で大竹昭子さんの文章と共に始まりました。‘撮る人・草森紳一’に一筋の光が当てられると、私は同時に‘撮られる人・草森紳一’の存在に心が傾く。
「兄は憧れだったんよ。東京から帰郷するたびにあか抜けてね・・」
「兄貴はモデルもやってたよ。おしゃれこきでさ」
死後にそんな言葉を父のご弟妹さん方からお聞きして、私は思わずのけぞった。モデルなんて、事実だとしてもどの程度の事を仰っているのかはわからない。けれど、父親が‘元・モデル’とは・・(いいじゃないか)!大袈裟に受け止めたくなります。
物心ついてから知る50代以降の父も、自らを律するように私より真っ直ぐな姿勢、亡くなるまで腰も背中も曲がらずに、いつもスタスタと大きな歩幅で歩いた。若い頃は、少しかっこよかったのだろうか・・と想像してみても、知る術はない。
ところが亡くなって初めて、父の個人アルバムを手にとる機会に巡り合った。その印象から父の容姿の変遷を私なりに名付けてみると、
1「野球少年時代」
2「ジャン・ポール・ベルモンド時代」
3「物書き確立時代」
4「仙人時代」
などに大別できる(乱暴ですが)。特に不良の色気あるベルモンド時代(20代半〜30代)の写真を見た時は本気で目を奪われ、娘ながら私の顔は赤くなってしまった。
昨年、父の偲ぶ会主催の編集者の方に「草森さんの写真、何かお持ちですか」と聞かれ、「う〜ん・・」と悩んで初めて、この写真の事を思い出した。棚から引っ張り出して見直すと、記憶していたほど悪くはないと今なら思え、会場に置かせて頂いた。
当時は学校でよくダメ出しされる‘ねむい’プリントになってしまった事が何より残念で、父をがっかりさせるだろうと落ち込み、誰にも見せないまま、押入れの箱にお蔵入りさせたのだ。
大倉舜二さん撮影の遺影として頂いた写真も、父は髪の長さ、セーター、マフラーまで私の写真と全く同じスタイルで、伺えば撮影の時期や喫茶店も同じだった。大倉さんの写真に映る父は見る度に表情が微妙に移り変るリアルな有機性を湛えているのに、この私の写真は奥行きがなくいつ見てもこうでしかない一つの表情、ぼんやりのっぺりとしている。父の目の前にいる私自身が、いつもどこかはっきりと物が言えない、曖昧でモヤモヤしたところがあったから、この‘ねむい’仕上がりも、技術の未熟さがかえって、娘の視界を映し出した写真としてはふさわしいかもしれない。
この日の撮影の様子でよく覚えているのは、私が無造作に話の最中にカメラを向けると、この写真の微笑みを、そのまましばらく静止させていてくれたことだ。だからシャッターを切るタイミングに難しさはなかった。今思い返せば「さすが元モデル(撮られ慣れている)!」とへんに感心。最期まで写真を見せる自信がなかった自分を、不甲斐無く思う。