崩れた本の山の中から 草森紳一 蔵書整理プロジェクト

「最後の文人」草森紳一は、2008年3月東京の自宅マンションで急逝しました。自室に遺されたのは山と積まれた3万冊余りの本たち。このブログでは、蔵書のその後をお伝えします。

「最後の文人」草森紳一は、2008年3月東京の自宅マンションで急逝しました。自室に遺されたのは山と積まれた3万冊余りの本たち。このブログでは、蔵書のその後をお伝えします。

NO MORE BOOKS! 12 十七歳の筆跡(その二)

 明治文学、講義。この前の続きから本を開きます。
 ちょっと飛んでp15。
≪元来中國文學の飜譯はすでに奈良朝から起つているが、歐洲文學は近世初頭であり、アラビアンナイトの斷片やイソップは徳川時代の説話や假名草子に現はれてをり、明治以降になると、これらの吸収熱は熾烈になり、≫
 「アラビアンナイトの斷片やイソップ」に赤鉛筆、見開きの折り目の脇に「アラビアン ナイト.」と糸くずのようにちいさな文字でメモしているのが可愛らしい。余白に「熾烈 熾烈」と力強く漢字の練習跡。



 今回の目玉はp18の書き込み。
 写真の通り、随分大きく清書されている謎の一行・・「朱唇を一嘗するを得ば。」。一瞬目に飛び込んで来た時は何の事かわからず、本文を数行読んで、思いがけず17歳の春にふれてしまったような気恥ずかしさがこみあげる。
≪例へば接吻などといふ言葉を飜譯するのさへ、「花柳春話」では「僕若シ幸ニ卿ガ朱唇ヲ一嘗スルヲ得バ能ク安眠ニ就カンノミ」といふような生硬な言葉遣ひであつた。≫
 「朱唇ヲ一嘗スルヲ得バ」に律儀な二重線が引いてあるが、先生がここに線を引きなさいと言ったとは思えないなぁ。明らかにここは我が雑学として、モラッタ!とおもったのでしょう。
 また、父の著作に『荷風永代橋』(青土社/2004)がありますが、永井荷風への興味の片鱗も発見。前後の文脈から、少し長めに引用します。

p18〜19
≪明治初期に漢文調の戯文が非常に流行した。成島柳北や服部誠一などの儒學出身者や漢學者が「柳橋新誌」や「東京新繁昌記」等を著はして江湖の喝采を博したのも、その漢學の造詣の深さがまだ常時の知識大衆に訴へるところが多かつたからである。もちろんかういふ人達の思想は根本的には反動的であつて、その戯文の諷刺的特徴はややもすれば新らしいものへの揶揄に終る場合が多い。(中略/ある英學書生のしたためた漢文の、書き下し文が紹介される)文章それ自身は誠にふざけたものであるが、魯文などの戯作とは違つて氣骨もあり、諷刺精神も鋭いもので、現在でも永井荷風などを初めとしてこの奇文を愛読するものが中々多い。≫

 「諷刺精神も鋭いもので、現在でも永井荷風などを初めとして」という部分だけに、ゆるゆると赤波線が引っぱってある。下の余白には、やや闊達な字で「戯文・成島 柳北・」とおぼえ書きも。
 次の20p半ばにある章の終りで、下の方に「9.7」と日付があった。昭和30年9月7日の事です。

その先は永代橋 白玉楼中の人