草森紳一という人は、おそらく「愛書家」ではないだろう。
愛書家とは、本をモノとして愛する人たちだ。だから、買った本は(読まなくても!)きれいにとっておこうとするものだし、立派な書棚にきれいに並べて悦に入ったりするものだ。
草森先生にも、かつてはそんな時代があったのかもしれない、とは思う。しかし、ぼくたちが目の当たりにした蔵書は、そんなふうに「愛された」ものではなかった。
必要に応じて買い求められ、読まれて、ただただ雑然と積み上げられていった本たち。整理を始めたあのころ、その「並び」をじっくりと分析する時間があったとしたら? 持ち主の興味の移り変わりという「生活史」を読みとることができたとしても、客観的な「内容分類」を見出すことはできなかっただろう。
ピエル・ロティ『東洋の幻』(岡田眞吉訳、白水社、1940年)に出会ったときも、そうだった。ぼくにとってこのフランスの小説家は、プッチーニの『蝶々夫人』の原案を書いたとか、芥川の『舞踏会』のオチに使われているとか、そのくらいの知識がある存在でしかなかった。しかし、目録作成作業の中では、この名前にたびたび出会ってきたような気がしたのだ。
いまになって調べてみると、蔵書の中にロティの作品は16冊も含まれている。それが10の箱に分かれて収まっているのだから、先生のあのマンションでも、ばらばらに置かれていたに違いない。強い関心をお持ちになって、ある時期、集中的に読んだ、というわけではなさそうだ。しかし、かえって、長期間にわたって気になり続けた作家だったのかもしれない、とも思う。
この本の巻末の広告には、ロティの作品が6冊、紹介されている。欧米列強との対立が戦争にまで煮詰まっていくこの時期、いわゆる「東洋趣味」で知られたこの作家の作品をまとめて出版しようとした白水社には、どんな出版意図があったのだろう。そして、現在の日本ではもうほとんど読まれなくなってしまったこの作家の作品と、息の長い付き合いを続けた草森紳一という人は、その「東洋趣味」に対して、どのような思いを抱いていたのだろう……