故いかりや長介さんを除いて、「〜チョーさん」と呼ばれることを、必要以上、無理矢理にでも追い求めた人間は、決まって、ギャグセンスがないくせに、過剰なまでに、受け、を狙う傾向があったのではないか。かつて、この国の少なからぬカイシャやガッコウでは、そんな彼、彼女が、はたから見ていると、「シムラ〜、こっち、こっち」と大声を上げたくなる、爆笑コントを毎朝演じていたりしたものである。
朝礼、である。「客」は同じだが、毎朝同じネタではいけないわけで、実はどんな人気芸人さんより条件は厳しい。そんな、「〜チョーさん」の「芸」を、生暖かい視線で、受け止めて差し上げる、ささやかな余裕が残されていた時期もあった。いまや、そんな暢気な「〜チョーさん」の「お座敷」も失われつつある。
当初予定されていた、故深作欣二監督のスケジュールが合わなかった、そんな偶然から生み出された、北野武監督の出世作『その男、凶暴につき』(1989年、脚本・故野沢尚氏)で、ぐっとスクリーンに引き込まれたのは。確か、ビートたけし氏演じる中年刑事が、署の屋上で行われている朝礼を無視して、誰もいない静かな朝の署内で一人、机に向かって新聞を読んでいる、美しい一場面であった。
本書の発行されたころの新聞紙上の出版広告に、近年のバフェット氏、ゲイツ氏、ジョブズ氏、シュミット氏と同じ勢いで、下手をすると「肖像画」付きで、毎朝のように、大々的に登場していた、信長氏、秀吉氏、家康氏、をはじめとする「ビジネスマンの模範たる」戦国武将たちの群像が思い浮かんできた。
その奇妙な「温故知新」の流れと、その数年後、「米百俵の精神」を、よく原典にも当たらずに。真に受けてしまった、「〜チョーさん」たちの群像は無縁ではあるまい。当時、ギャグマンガの世界とはいえども、『内閣総理大臣織田信長』(白泉社、志野靖史先生、1994〜97年、『ヤングアニマル』連載)などが、大書店の書棚に踊っていた。
その頃、流行はじめていた「新語」、リストラクチュアリング、の渦中に呑み込まれるも、無事生還を果たし、今はもう、立派な「〜チョーさん」である、知人が当時、苦笑混じりに深夜、こんな話を聞かせてくれたことがあった。
「朝礼で、〜チョーがさあ、「上杉ナントカ」の本をとにかく読め!って、大声で怒鳴るんだよ」
「帰って、のり弁で缶ビール飲みながら、読んだんだけどさあ」
「結局、わかったのはそのナントカって、大声で怒鳴って、強制するよなヤツじゃなかったってことだけだよ」