崩れた本の山の中から 草森紳一 蔵書整理プロジェクト

「最後の文人」草森紳一は、2008年3月東京の自宅マンションで急逝しました。自室に遺されたのは山と積まれた3万冊余りの本たち。このブログでは、蔵書のその後をお伝えします。

「最後の文人」草森紳一は、2008年3月東京の自宅マンションで急逝しました。自室に遺されたのは山と積まれた3万冊余りの本たち。このブログでは、蔵書のその後をお伝えします。

ログ。

あけましておめでとうございます。
旧年中はみなさま、ありがとうございました。
本年もどうか、よろしくお願い申し上げます。

 当方、ブログという単語を聞いたときに、まず思い出したのがBCL(Broadcasting Listening)のログ、であった。ログ(log)の原義は航海日誌であるが、しかし、BCLとは。1970年代前半から十数年ほどの間、流行していた、「趣味」である。近年、かつての「少年」の間で、「復活」の兆しも、見られるようだ。
 バチカン、西ドイツ、アルゼンチン、国連、などなど、海外二十数カ国から日本向けに日本語ラジオ放送が行われていた、その当時。短波ラジオで海外の放送を聞いて、受信状態、放送内容を、ログにしっかり書き留めて、放送局にエアメール(返信用の国際切手返信券:IRCを同封のこと!)で受信報告書を送ると。放送局はそのお礼として、ベリカード、なる絵ハガキのような証明書、時にはカレンダー、ポスター、あるいは切り絵などを返送してくれていたのだ。(今でも一定数の放送局は発行してくれるようだ)なぜ、海の向こうの子ども相手にそんなていねいな対応を?
 そもそも海外短波放送の場合、海外での電波伝播、聴取状態の実態調査は必要不可欠、であったようである。特に大予算・大出力で放送していたVOA(Voice of America)、モスクワ放送、などなどプロパガンダ政策の一環としての色が濃い放送局にとってはなおさらである。そのベリカードの収集をお目当てに、多くの子どもたちが、「英語の勉強」と言いつのり、現在のパソコンなみには高価な、プロシード(ナショナル:現パナソニック)、スカイセンサーソニー)などなどの短波ラジオをねだったものだ。当方も、またその一人である。
 田舎の本屋にさえ。1980年代前半までは、月刊誌『短波』(発行・日本BCL連盟)がおかれていた。『リグ・ログ・ラグ』(関口シュン先生)、『短波』誌上の連載ストーリーマンガ、も繊細な筆致の味わい深い佳品だった。
 唐突だが、この正月。当方がBCLをはじめて間もないころ、1979年、のログを発見してしまった。恐縮だが、その一部を、原文ママで引用させていただく。 

1979年8月30日 北京放送
  18:30〜19:00 7480KHz (当ログのSINPOコードは534445と記されている。55555の意か?/Living Yellow)
   18:29 局名アナウンス
   18:30 ニュース
       シアヌークでん下 北京をはなれ北ちょうせんへ

   18:35 ニイハオ中国語2
       動物 園へ行く道順のきき方。

   18:40 中 日の音楽の交流の実話
       びわについての話などやりゅう学生の話だった。

   18:45 民ようを聞く 台わんの民よう。
      「田おこしの歌」「どじょっこ」「ひよこ」「バランザンの歌」「思い」
   19:00 終了アナウンス

 そのころの北京、台北プノンペンピョンヤン。そのころの当方。国策として、1933年8月の初号機発表以降、数年で700万台以上の「国民ラジオ」を普及させた、という過去を背負った、そのころは、二つ、だったドイツ。
 そして当時、「文化」と「宣伝」、を見つめた労作『絶対の宣伝』(番町書房)、第4巻を上梓したばかりであったはずの、1979年8月の草森紳一、氏を思う。
 夜更けに。手元のトランジスタ・ラジオを点けてみる。遠い、さざ波のような、ノイズがかすかに。

その先は永代橋 白玉楼中の人