崩れた本の山の中から 草森紳一 蔵書整理プロジェクト

「最後の文人」草森紳一は、2008年3月東京の自宅マンションで急逝しました。自室に遺されたのは山と積まれた3万冊余りの本たち。このブログでは、蔵書のその後をお伝えします。

「最後の文人」草森紳一は、2008年3月東京の自宅マンションで急逝しました。自室に遺されたのは山と積まれた3万冊余りの本たち。このブログでは、蔵書のその後をお伝えします。

単行本。

 私事だが、当方には。単行本はおろか、雑誌もなかなか捨てられないという悪癖がある。しっかり再生してもらった方が世のためになる、と分かっていても名残惜しいのだ。
 草森紳一、氏の御蔵書、全てを精査したわけではなく、以下は雑駁な印象に過ぎない。ただ。氏は、多くの場合、マンガを単行本(廉価本含む)の形でしか、お手元に置かなかったようである。当たり前の話かもしれない。あの単行本の分量にして、それに対応する、週刊誌、月刊誌の山があったら、総容積は信じられない大きさになるはずだ。
 ただ、「COM」(虫プロ商事)とか、「ガロ」(青林堂)などの、「特別な」雑誌は分けて手元に置いておられる、マンガ読みの方々は、かなりいらっしゃると思う。草森紳一、氏に関しては、そうした形跡は余り見られない。専ら、単行本勝負だったようである。

 管見ではあるが、草森紳一、氏がマンガについての論考を盛んに執筆されていた1960年代後半〜70年代初頭当時、大手出版社のマンガは基本的に雑誌連載(当時は月刊誌が中心であった)を追いかけて読むものであったようだ。当然、「劇画」を生み出した、貸本マンガという、はじめから、単行本の体裁をとった完結ものもまだまだ力を有していたのだが。ストーリーマンガはともかく、ギャグマンガなどは「全集」と銘打たれた、「傑作選」が出れば良い方であったようだ。出版社側から見た場合、雑誌の購入という、その場での消費のみ、を前提に出版活動が行われていたとおぼしい。竹熊健太郎氏、をはじめとする諸家の方々の説によると、連載マンガの大多数を単行本化し、「再販売」する、回路が組まれるのは、1973年の第一次石油ショック前後、紙を初めとする製作原価の高騰などの影響下、マンガをめぐる、経営の型を変えよう、としてのことであったらしい。
 氏の部屋から、ある時、大量の月刊誌、週刊誌が運び出されたことが、あったか、どうか。今となっては知る由もない。
 当方の知る限り、氏の同時代マンガへの関与の度合いは、その第一次石油ショック期以後、かなり減少したように思える。当時、担任の先生に、トイレットペーパーの無駄遣いでとっちめられていた、当方には。はるか遠く、しかし、確かに同時代の出来事である。

その先は永代橋 白玉楼中の人