崩れた本の山の中から 草森紳一 蔵書整理プロジェクト

「最後の文人」草森紳一は、2008年3月東京の自宅マンションで急逝しました。自室に遺されたのは山と積まれた3万冊余りの本たち。このブログでは、蔵書のその後をお伝えします。

「最後の文人」草森紳一は、2008年3月東京の自宅マンションで急逝しました。自室に遺されたのは山と積まれた3万冊余りの本たち。このブログでは、蔵書のその後をお伝えします。

いちいちツッコミを入れないで!

 「スター・トレック」といえば、アメリカの人気SFシリーズだ。宇宙船エンタープライズ号が遭遇する、数々の「驚異に満ちた物語」を描いたその最初のテレビシリーズ(1966〜69)は、今では伝説的な作品となっている。ぼくの中高生のころには、日本語吹き替え版が「宇宙大作戦」という名前で深夜に放送されていて、元来、夜ふかしが苦手にもかかわらず、がんばって起きていて見たものだった。
 この「宇宙大作戦」では、日系人俳優ジョージ・タケイ氏が演じるエンタープライズ号の操縦士は、「ミスター加藤」と呼ばれていた。しかし、オリジナルの「スター・トレック」では「ミスター・スールー」であることは、ファンの間では有名な話だった。日本での放映に合わせて、いかにも日本人らしい名前に変えたのである。



 翻訳にあたって固有名詞を日本風に変えてしまうことは、文学の世界でも、かつては至ってふつうに行われていた。そういう知識は持ち合わせていたものの、蔵書の中から出てきた、ウージェーヌ・シュー『巴里の秘密』(武林無想庵訳、改造社世界大衆文学全集第12巻、1929)を読んで、その連発にさすがにびっくりしてしまった。
 主人公は、ドイツの貴族で、「如露石公(じょろせきこう)緑郎(ろくろう)」という。なんだか妙な名前だが、調べてみると戦後の訳では「ゲロールスタイン公ロドルフ」となっている。その忠実な従者は、「室生(むろふ)」。もともとは「マーフ」というらしい。
 敵方として「斎藤東馬」と「斎藤さよ子」という兄妹が出てくるのだが、この純日本風の名前も、本来は「トーマス・シートン」とその妹「サラ」というらしい。「シートン」を「斎藤」と訳しているのは、なかなか秀逸。ほかにも、「平野寂」は「ジャック・フェラン」、「森類子」は「ルイズ・モレル」などなど、万事、こんな調子だ。
 そんなわけだから、本書を読んでいると、あちこちで次のような文に出会うことになる。
 「斎藤さよ子――万里小路伯爵未亡人、三十六七歳――は蘇格蘭(スコツトランド)の由緒正しき一郷子(がうし)の娘だが、十七の時両親を失ふと、兄東馬(とうま)もろとも故国を去つた。」
 「砂町なる清見子爵の邸宅は、三芹瀬(サンゼリセ)付近とは言ひながら、大きな庭園に囲まれた、物静かな気のきいた家であつた。」
 そんな和風の名前を持ったスコットランド人など、いるわけがない! 19世紀のシャンゼリゼ付近に、日本人が邸宅を構えているはずがない! てな感じでいちいちツッコミを入れているようでは、物語を楽しむことはできないのだ。
 昭和初年の日本の「大衆文学」の世界では、ヨーロッパ風の名前は、まだこなれないものだったのだろうか。それとも、やがて訪れる「敵性語禁止」の時代を、先取りしたものだったのだろうか。

その先は永代橋 白玉楼中の人