崩れた本の山の中から 草森紳一 蔵書整理プロジェクト

「最後の文人」草森紳一は、2008年3月東京の自宅マンションで急逝しました。自室に遺されたのは山と積まれた3万冊余りの本たち。このブログでは、蔵書のその後をお伝えします。

「最後の文人」草森紳一は、2008年3月東京の自宅マンションで急逝しました。自室に遺されたのは山と積まれた3万冊余りの本たち。このブログでは、蔵書のその後をお伝えします。

蔵書をいったいどうするか(番外編6)刺激的でダイナミックな記念講演

 さて、11月29日(月)草森記念資料室の開館日、4時から記念講演「真の知の巨人」が始まった。講師の椎根和さんはマガジンハウスの『hanako』『popeye』など数々の雑誌の編集長を務めた人。草森さんの友人でもあり、『荷風永代橋』『中国文化大革命の大宣伝』(下巻)の跋文も書いていらっしゃる。
 草森さんが亡くなる前年の暮れにも一緒に永代橋周辺を飲み歩いたとお聞きしていたので、酒場で語り合った楽しい話が出るかと思いきや、会場のホワイトボードには、
 「斜の視覚感覚/長安男児あり、二十にして心已に朽つ/李白 杜甫 韓愈 白居易/李賀=李長吉/文字の大陸・汚穢の都/1450ダ・ビンチ→線遠近法理論/1500王陽明→写真伝神」
と、こちらの教養!(ない、と草森さんによく言われたものだ)を試されるような文字が並んでいる。

 「草森紳一は明治以来の最大の読書家。PCで言えばウィキぺディアの全部が頭に入っていた人。目の前のことを書くだけでは知の巨人と言えないが、時代を見通したうえで書いた真の知の巨人だった」と椎根さんは語り始めた。

 芸術文化とされるものが限られていた時代に、ファッションも写真もマンガも宣伝も知の活動の一つ、文化(サブ・カルチャー)と捉えて評論した。写真についても王陽明から説き起こすなどして、知的な影響力を与えた。書き手としての草森さんは自分たちの目標、理想だったと。
 慶應の学生時代、草森さんは新宿の伝説的なジャズ喫茶「キーヨ」で唐の詩人李賀を読みふけったそうだ。李賀が生きた820年頃は、人類が最初の知的な視角、視野をもったと言える時代で、李賀を読むことで草森さんは俯瞰と斜の視角をもつようになった。その「斜の視覚」は『歳三の写真』他の著作にうかがえると言われ、また伊藤博文榎本武揚など明治人の中国原体験をまとめた『文字の大陸 汚穢の都』(大修館書店)は、8年以上前に書かれた文章にもかかわらず、まさに今の日本が直面している北方領土、沖縄問題、中国人の国民性、外交交渉などにふれていて、草森さんの知の感覚がいかに優れていたかということがわかると強調された。

 篠山紀信奥野信太郎、遠近法、フェルメール、幕末の写真映像、高橋睦郎司馬遼太郎と李賀、龍馬などの言葉がいっぱい飛び交った。

 「流行遅れになることを書くな」「原稿を渡すことは生命のやりとりだ」という草森さんの物書きとしての姿勢は、韓愈から影響を受けたのではという指摘も。
 原稿を書き終わった直後の草森さんの荒廃した顔は、精神と体力の全エネルギーを文字にのり移らせた後のものだったと回想された。

 椎根さんは出版社時代に三島由紀夫の担当だった。贅を尽くした生活をし、お金のかかる軍隊までつくり、最後に切腹した三島と、お金のことなど考えずに自分が書きたいことだけを全精力を傾けて執筆し、万年床の中で死んだ草森さんと。この二人の知の巨人の死に様の相違……。どんなに短い文章も生命のやりとりと考えていた草森さんに対して、私軍隊の費用をまかなうために、小説を書いた三島……。三島は文に復讐されたといってもよい。讐という文字には「代価をはらう」という意味がある。文を生きているものとしてあつかった草森さんは、最高の隠者のように死をゆるした――

 約50人の聴衆はしんと聞き入った。草森紳一への思いにあふれ、かつ知的好奇心を刺激される一時間だった。

 翌日は、3万冊が保存されている廃校と書庫を見学予定。東京組は3時過ぎの飛行機で帰京予定だから、早起きをしなければ……。続きは次回に。

その先は永代橋 白玉楼中の人