英語の詩と本来の漢詩とを詳しく見比べるとすぐわかるのは、やはり意味の違う表現をしている箇所が多々あること。そこで最終回は、英語の詩を訳すことをベースに、漢詩とその日本語の解釈を参照しながら私の言葉で意味を補った折衷案になりました。もはやこれは陶淵明の詩だとは言えない・・・?
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魂は説く;
神は万物の運行の中にこそ或るのだ
神は自ら創造したものを操作することはできない
人間が「天・地・人」の中で真ん中に位置する優越性は、
この私(魂)あってのおかげだ
私はあなた方とは性質を異にするものだが、
一緒にくっついて生まれてきたのだ
善も悪もお互い親しく分け合って、どうにも離れる術はない
(中略)
(肉体が言うように)酒に酔えば憂いを忘れられるかもしれないが、
老いを速めるばかりではないのか?
(影が言うように)崇高な行いに心を傾けるのも良いが、
誰かがお前を褒めてくれるなどどうしてわかろう?
あまりあなた方が煩うと、かえって私(魂)が傷つくのだ
運命が導く時に逝くのがよろしい
果てしない流転に身を任せる川の流れのように
喜びもせず、怖れもせずに
まさに逝くべき時に −それ逝きなさい
じたばた煩うことはない
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特に気になったのは最初の二行です。
大鈞無私力 大鈞(たいきん) 力(ちから)を私(わたくし)する無(な)く
万理自森著 万理(ばんり) 自(おのずか)ら森(しん)として著(あらわ)る
「造物主は公平無私であって、
万物には真理がおのずと厳かに備わっている。」
(『漢詩をよむ 陶淵明詩選』石川忠久/NHKライブラリー/2007)
ここが英語では、
God can only set in motion:
He cannnot control the things he has made.
公平無私だとか万物は自ずと真理を備えるという意味は含まれていない。
でも漢詩冒頭の「大鈞」は、‘鈞’は陶器を造るときに使うろくろのことで、回転しつつ器を作り出すところから、‘大鈞’とはその大いなるもの、万物を作り出した造物主を指す言葉らしい。その由来を知ると、英語で‘motion’という単語が使われていることにイメージが湧いてきた。
淵明が表現した葛藤と最後に導き出した境地、まだ年端のいかない私にはしみじみ解るとまで言えない。でもこの普遍的な人間の呟き、ちょっと異国を旅する気分で、触れ合えて良かった。