崩れた本の山の中から 草森紳一 蔵書整理プロジェクト

「最後の文人」草森紳一は、2008年3月東京の自宅マンションで急逝しました。自室に遺されたのは山と積まれた3万冊余りの本たち。このブログでは、蔵書のその後をお伝えします。

「最後の文人」草森紳一は、2008年3月東京の自宅マンションで急逝しました。自室に遺されたのは山と積まれた3万冊余りの本たち。このブログでは、蔵書のその後をお伝えします。

昭和。

 明治は遠くなりにけり。という言い回し、なかなか、まだ分からない。が、平成生まれのミュージシャンの方々の活躍を眺めるとき、ほんの少し、身近に感じる。
 平成ナントカ、と聞くと少々、うさんくさい、新参者の匂いを感じたりもするのだ。 
 しかし、「團菊左時代」を築いた、初代市川左團次氏が音頭をとって立ち上げ、今に名を残す大劇場、明治座も、名門、明治大学も、老舗中の老舗、明治屋も「明治」と名乗りをあげたころにはそんな、青い青い、面映ゆさを帯びていたのだろう。

 草森紳一、氏の御蔵書中の本書『左團次藝談』(市川左團次著、南光社、昭和十一年)。こちらは二代目である。初代、父の明治座とともに、屋号「高島屋」、左團次名跡を継ぎ。小山内薫氏と自由劇場の創立に参画、明治四十二年、森鴎外氏翻訳のイプセン劇『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』において、主役ボルクマンを演じた歌舞伎役者である。
 昭和三年、「革命の意気」なお盛んだった、ソ連邦政府の招聘に応じ、松竹幹部、城戸四郎氏とともに、『忠臣蔵』、『娘道成寺』、『鳴神』、『鷺娘』、『修善寺物語』(岡本綺堂氏作)などをロシアで公演、ボリショイ劇場など名だたる大劇場を大入り満員にする。
 この公演をロシア側で支えたのが当時のソ連共産党幹部レフ・カーメネフ氏の夫人であった。その八年後、本書刊行のほんの数ヶ月前。カーメネフ氏は、ジョージ・オーウェル氏の『1984年』(新庄哲夫訳、ハヤカワ文庫、新刊入手可能)にも深い影を落とした、大粛清、「モスクワ裁判」の被告席に立ち、即刻銃殺刑に処せられた。カーメネフ夫人もまた。後にラーゲリ、所謂「収容所群島」において窮死することになる。
 ロシア公演を終えた左團次氏はその後、ベルリン、ロンドン、パリ、と周遊し、ローマにて、独裁体制を確立していたベニト・ムッソリーニ氏と会見。再びその足でモスクワに回遊し、現在のアクターズ・スタジオにも影響を残す、大演劇理論家スタニスラフスキー氏の書斎に招かれる。まさに「世界は舞台」。
 第一級の藝談であり、自伝であり、興行史、外交裏面史の要素も併せ持つ本書。本書はこんな二代目市川左團次氏の肉声で結ばれている。 

「……演劇に対する熱情は、炎のやうに、いつでも私の体を包んでゐます。否、私自身が炎です。これ以外には、私には、何もありません。……演劇に対する熱情……演劇に対する熱情……これ以外には、私には何もありません。……」

 二代目市川左團次。明治十七年、五歳で初舞台、『助六』に臨み、大正十一年、智恩院山門前にて、野外劇『織田信長』(松居松葉氏作)を上演。昭和十五年二月二十三日、逝去。享年五十九歳。最期の舞台はその月の新橋演舞場、『修善寺物語』夜叉王役、であった。

その先は永代橋 白玉楼中の人