まだまだ十分にうぶだったころ、年上の女性から年賀状をもらって、その字の美しさに、あっというまに恋に落ちてしまったことがある。また、ある文学館でお気に入りの作家の自筆原稿を目の当たりにして、なんだかちょっと幻滅してしまったこともある。
手書きの文字とは、不思議なものだ。
「書」は芸術であり、自己表現のため、あるいは他人に見せるために作り上げられたものだから、ちょっと違う。なんでもない、日常生活の中でふつうに書かれた文字にこそ、読み手に直接働きかける何かが、宿っているような気がする。
明治時代、東アジア諸国の中でいち早く「近代化」を進めていた日本には、中国から大量の留学生が「西洋文明」を学びに来ていた。青年時代の魯迅も、その1人であった。1902(明治35)年から1909(明治42)年にかけて、足かけ7年も日本にいたのだから、日本語には堪能で、読み書きにも苦労しなかったことだろう。
しかし、そんな魯迅が、どんな「日本文字」を書いたのかについては、これまで、考えたこともなかった。
この小冊子からうかがえる魯迅の手書き文字は、かなりチマチマしていて、すこし神経質な印象がする。中国社会に巣くう「前近代的」なものを、激しく拒否しつづけた魯迅。ぼくはその愛読者とはとても言えないが、いかにも彼らしい文字のような気もする。
この手紙が書かれたのは、1931(昭和6)年3月3日のこと。日本と中国とが、不幸な関係に進んでいた時期だ。そんな状勢の下、魯迅にとって日本語で文章を書くということは、どんな意味を持っていたのか?
国と国との関係はともかくとして、自分の文学を評価し翻訳してくれる日本人の存在は、うれしいことではあったことだろう。そのあたりの複雑な思いは、この「手書き文字」に影を落としているのだろうか。
朱色の罫線の合間にびっしりと書かれた文字を見つめながら、さまざまな思いが、ぼくの胸の奥底をよぎっていく。