崩れた本の山の中から 草森紳一 蔵書整理プロジェクト

「最後の文人」草森紳一は、2008年3月東京の自宅マンションで急逝しました。自室に遺されたのは山と積まれた3万冊余りの本たち。このブログでは、蔵書のその後をお伝えします。

「最後の文人」草森紳一は、2008年3月東京の自宅マンションで急逝しました。自室に遺されたのは山と積まれた3万冊余りの本たち。このブログでは、蔵書のその後をお伝えします。

手書きの文字を前にして

 まだまだ十分にうぶだったころ、年上の女性から年賀状をもらって、その字の美しさに、あっというまに恋に落ちてしまったことがある。また、ある文学館でお気に入りの作家の自筆原稿を目の当たりにして、なんだかちょっと幻滅してしまったこともある。
 手書きの文字とは、不思議なものだ。
 「書」は芸術であり、自己表現のため、あるいは他人に見せるために作り上げられたものだから、ちょっと違う。なんでもない、日常生活の中でふつうに書かれた文字にこそ、読み手に直接働きかける何かが、宿っているような気がする。



 『魯迅『阿Q正伝』日訳本注釈手稿』(文物出版社、1975)。中国近代文学の父、魯迅の代表作『阿Q正伝』が日本語に訳されるに際して、訳稿に眼を通した作者が翻訳者のジャーナリスト山上正義にあてて日本語で書いた手紙を、そのまま写真版で収録し中国語の解説を付けた、うすっぺらい小冊子である。
 明治時代、東アジア諸国の中でいち早く「近代化」を進めていた日本には、中国から大量の留学生が「西洋文明」を学びに来ていた。青年時代の魯迅も、その1人であった。1902(明治35)年から1909(明治42)年にかけて、足かけ7年も日本にいたのだから、日本語には堪能で、読み書きにも苦労しなかったことだろう。
 しかし、そんな魯迅が、どんな「日本文字」を書いたのかについては、これまで、考えたこともなかった。
 この小冊子からうかがえる魯迅の手書き文字は、かなりチマチマしていて、すこし神経質な印象がする。中国社会に巣くう「前近代的」なものを、激しく拒否しつづけた魯迅。ぼくはその愛読者とはとても言えないが、いかにも彼らしい文字のような気もする。
 この手紙が書かれたのは、1931(昭和6)年3月3日のこと。日本と中国とが、不幸な関係に進んでいた時期だ。そんな状勢の下、魯迅にとって日本語で文章を書くということは、どんな意味を持っていたのか?
 国と国との関係はともかくとして、自分の文学を評価し翻訳してくれる日本人の存在は、うれしいことではあったことだろう。そのあたりの複雑な思いは、この「手書き文字」に影を落としているのだろうか。
 朱色の罫線の合間にびっしりと書かれた文字を見つめながら、さまざまな思いが、ぼくの胸の奥底をよぎっていく。

その先は永代橋 白玉楼中の人