崩れた本の山の中から 草森紳一 蔵書整理プロジェクト

「最後の文人」草森紳一は、2008年3月東京の自宅マンションで急逝しました。自室に遺されたのは山と積まれた3万冊余りの本たち。このブログでは、蔵書のその後をお伝えします。

「最後の文人」草森紳一は、2008年3月東京の自宅マンションで急逝しました。自室に遺されたのは山と積まれた3万冊余りの本たち。このブログでは、蔵書のその後をお伝えします。

中退。

 中退者の方々の活躍で、まず有名なのが、タモリ氏、広末涼子氏を輩出した、早稲田大学であるが、その傍らで、こちらも、輝かしき中退・除籍者たちが出入りしているのが、東京外国語大学である。『浮雲』で言文一致体を構築した二葉亭四迷氏、ルポライターの草分け、『タレント帝国』の竹中労氏、ご存じ『木枯し紋次郎』の中村敦夫氏。逆に他の学校を中退・放校後に東京外国語大学にやってきて無事卒業したのが大杉栄氏、中原中也氏。大体が、草創期の「学長」の中江兆民氏が就任後3ヶ月で「儒教徳育の重要性」を強く主張して、文部省と対立を生じ、「中退」しているのだから、手に負えない。 

 しかし、草森紳一、氏の御蔵書の中の本書、『回想の明治維新』(メーチニコフ著、渡辺雅司訳、1987年、岩波文庫、新刊入手可)の著者にして、中江兆民氏が短い在任期間中に出会ったロシア語科教師メーチニコフ先生も凄い。亡命生活30年、20ヵ国語を解する。独学の民族・地理学者として、論文を量産。そしてナロードニキの一人である。本国ロシアでは三つの大学でいずれも1年半以内で放校処分にあう。こちらも手練れの「中退」組である。
 ガリバルディのイタリア統一に一兵卒として参戦、スペインにバクーニン主義を伝道し、バルカン半島の民族解放闘争に参加、パリ・コミューンにおいて救援活動に参加、その地で明治維新の報に触れ、日本語を学び、そして後の陸軍元帥大山巌氏と出会い、互いに仏語・日本語を教え合う「ランカスター式相互教授」を開始。その縁で文部卿木戸孝允氏、ついには岩倉使節団本体とも知己を得て。西郷従道氏宛の分厚い紹介状を携えて、1874年海路日本へ。
 そして彼は、西郷隆盛氏から薩摩の子弟のための私学校設立の要員として招聘される。それが頓挫したところで、神保町からほど近い一ツ橋、当時の東京外国語学校のロシア語科教師として2年間勤め、体調不良のため、やはり「中退」を余儀なくされる。
 傑出した同時代報告であるのみならず、日本語学・日本史・日本文化の優れた概論でもある本書。歌舞伎、義太夫を愛し、頼山陽日本外史』に挑んだ彼は、富士山、を下記のように描いている。(本書、p.97より)
 「そして灰青色の波うつ霞に幻想的に取巻かれた富士山の正円錐が、はるか地平線で輝いている。この方角の風景は、どことなくバルセロナ北方のカタロニア地方を想い出させる。」
 1888年ジュネーブ近郊のクララン村で50年の生涯を閉じたメーチニコフ先生。丁寧かつ親切な本書巻末、訳者解説からの孫引きではあるが。彼の遺著『文明と歴史的大河』(未完)より、以下。
 「苦悩し思惟する生身の個人(リーチノスチ)にとって、彼の墓の上に建てられる墓碑が美しいか否か、あるいは自分を殺害した武器が優秀か否か、といったことが何の関係があるというのか?……」(本書、p.349より)

その先は永代橋 白玉楼中の人