このブログのメインテーマ「蔵書」から少し脱線したくなった私は、
父の顔を描いてみようと思い立った。写真を参照しながらかき始めたけれど、
不安定な輪郭線や目鼻口をなかなか絶妙な位置に引くことができず、
ひとまずこの辺でギブアップしました。
小さい頃は「お父さんに似てるね」とよく言われた。
しかしその度に私は俯いて少しムスッとしていた。
物心ついたころ、父はもう他の同級生の若々しいパパと比べると、
スマートなお爺さんといった方が似つかわしい風体だった。
小学校のクラスメイトに父のことを「写真家のお爺ちゃんだよ。
かっこいいでしょう」と偽ったこともある(白髪長身でコンパクトカメラを
握っている父の姿を、その子が不思議そうに目を丸くしてみていたから)。
ある日「私とどこがにてるの」と母にたずねると「目よ」という答が返ってきた。
「お父さんの目ってほそいでしょ」
「アラ、お父さんの目は大きいのよ。いつもあんな風だから細く見えるけど」
いざ記憶に浮かべようとすると、父の顔の印象はモヤモヤとしていた。
立って並ぶと、父は背が高いので、顔も遠くにある。
座っている時はタバコのせいで、いつも顔の周りは煙でくもっている。
本や新聞を読んでいる時は、眉を寄せて難しげに目がグッと細まっており、
やはりどこが大きいんだかわからないのだった。
無二の親友である写真家の大倉舜二さんが生前撮影された写真が、遺影として我が家にある。
写っている父はそこにいるかのような存在感を放ち、その瞳はくっきりと二重、
おっとりした垂れ目をしていた。それでも今、私はあまり似ているとは言われない。
昨年は蔵書の片付けなどで父の住んだ門前仲町に何度も通うことになり、
その度に父の行きつけだった喫茶店・カフェ東亜でオムハヤシを食べるのが楽しみだった。
ある時突然、ホールの綺麗なお姉さんが私に「優しげなお眼がお父様に似ていらっしゃいますね」
と言われた。その温かい微笑みにフワッと表情がほころんだ私は、
笑った眼が父と重なりそうで、少し恥ずかしかった。