崩れた本の山の中から 草森紳一 蔵書整理プロジェクト

「最後の文人」草森紳一は、2008年3月東京の自宅マンションで急逝しました。自室に遺されたのは山と積まれた3万冊余りの本たち。このブログでは、蔵書のその後をお伝えします。

「最後の文人」草森紳一は、2008年3月東京の自宅マンションで急逝しました。自室に遺されたのは山と積まれた3万冊余りの本たち。このブログでは、蔵書のその後をお伝えします。

十勝平原再訪記(後編)

 本はなんのために存在しているのか?
 それはもちろん、読まれるためでしょう。どんなにいい素材を使って、美しく仕上げられた本でも、読まれなければ意味がない。別に隅々まで熟読して欲しいというわけではありません。だれかが開いてみて、なにかを感じ取ってくれれば、それでいいのです。
 本はいつだって、手にとってくれる人がやって来るのを待っている。——そういう意味では、博物館でガラスのケースに入れられて大切に保管されている本は、ちょっとかわいそうな存在なのかもしれない。そう思うこともあります。
 例のおでん屋さんで、草森先生ととりとめもないお話をしていたときに、図書館の話題になったことがありました。若き日、慶応大学の斯道文庫にお勤めされていたころ、書庫の中を歩いていると、先生の耳には「本たちのうめき声」が聞こえたそうです。
 「こんなおもしろいことが書いてあるんだ……読んでくれ……」



 冬の早い夕暮れが迫った廃校で、段ボールに詰まった蔵書たちと久々の再会を果たしたあとは、帯広大谷短期大学へと連れていっていただきました。同大学の主催するオープンカレッジの一講座として、お話をさせていただくためです。田中先生が与えてくださったお題は、「草森紳一蔵書整理プロジェクトとは 〜過去と未来を繋ぐ【段ボール】へ〜」という、なかなかすてきなものです。
 十勝平原の広がりの果て、日高山脈の雄々しい山並みの向こうへ、冬の太陽がゆっくりと隠れていく。やがて大空は落ち着いたグラデーションをたどりながら暗転して、星々が静かなまたたきを始める。……そんな時間に、短大の駐車場は、熱心な地元の方々のお車で一杯になりました。定員20名のところ、40名を超える方々が、講座に駆けつけてくださったのです。
 草森先生の同級生やファン。そして、先生のことは知らなくても本や文化的なものに強い興味をお持ちのオープンカレッジの常連さんたち。図書館関係者や地元メディアの方々。みなさんを前に、草森先生のエピソード、蔵書整理の日々などを語りながら、ぼくはつくづく、「蔵書をこの地が引き受けてくださってよかった」と感じていました。
 それは、大谷短大のある音更町が先生のご出身地だから、というだけではありません。ここには、こうやって「草森蔵書」に興味を持って、わざわざ話を聞きにきてくださる大勢の方々がいる。草森先生が生涯をかけて集めた本たちは、ここで段ボールから解放され、だれかの手に取られ、新しい物語をつむぎ始めることでしょう。
 それが本たちにとって一番の幸せであることは、疑いようがないじゃありませんか!

十勝平原再訪記(前編)



 そこでは、時間そのものが凍りついているかのようでした。
 子どもたちの笑い声が毎日響いていたのは、もう20年ほども前のことになってしまったそうです。しかし、長い歳月に浸食されたような乱れは微塵も感じられず、かといって、在りし日の姿が昨日のことのように浮かんでくるわけでもない。あらゆる感傷を拒否するかのように、無色透明に冷たく凝固した時の流れだけが、てこでも動かせないような存在感を持って居座っている。——そんな場所でした。
 去る2月17日の水曜日、帯広大谷短期大学のお招きにより、蔵書が収められている廃校を見せていただきに、北海道は音更町まで行ってまいりました。去年の11月9日に見送ってから、数えてみるとちょうど100日目の再会となります。
 十勝は、北海道の中では雪の少ないお土地柄だそうですが、それでも廃校の周りは一面の銀世界。傾きかけた午後の太陽が、ウスバカゲロウの羽の色を思わせるような、はかなくも透き通った光を投げかけ、それが雪面に反射して、なんとも幻想的な雰囲気を感じさせます。そんな中、廃校の教室2つに分かれて、彼らはキチンといずまいを正して、収まっていました。
 ご案内くださった田中先生のお話では、運び込むときは膨大な量に圧倒されて、たいへんなご苦労をなさったとのこと。東京の倉庫を出たときは順不同の無秩序状態になっていた段ボール箱を、だいたい番号順に整理して収めてくださったご努力には、ほんとうに頭が下がりました。
 おなじみの段ボール箱の1つを開いて、1冊を手に取ってみる。そのとたん、ひやりとした冷気が、手のひらから心臓へと向かって流れ込んできます。ちょうど1年前、必死になってリストを入力していたあの冬も、彼らはやはり冷え切っていたなあ……。
 本というものは、時間を凝固させる冷凍庫のようなものかもしれない。
 ふと、そんなことを考えました。書き手の思い、編集者の思い、そして、手に取ってくれた読者のさまざまな思いを載せながら、本たちは、時の流れの中を旅していく。1冊1冊には、いろいろな人のいろいろな思いが凍結され封じ込められていて、だれかが本を開いたとき、その思いはゆっくりと溶け出していく。
 広大な十勝の平原にも、もうすぐ春がやってきます。そのとき、蔵書たちの新たな物語も、芽吹き始めることでしょう。

星。

 当方のさえない、地方での学校生活のなかで、とにかく感謝しているのが、その学校図書館の充実ぶりであった。なんたって、『共同研究 転向』(思想の科学研究会、全三巻、平凡社)、革装の三島由紀夫全集(新潮社)まで揃っていた。そして、真新しいピカソの画集。ほぼ毎日、鞄を膨らませて、帰宅するのである。結局、国道沿いの本屋で、マンガの立ち読みで日が暮れて。『ビヒモス』(F・ノイマンみすず書房)はじめ、背伸びしまくりで借り出した、肝心の学校図書館の本は、いつも、文字通り枕頭にあって動かなかった。結局、一緒に借りてきたSFを、『ビートたけしオールナイトニッポン』を聞きながら、寝っ転がって読んで、夜更かしするのが常だった。
 草森紳一、氏の御蔵書の中にも発見された、所謂SF御三家(ハインライン氏、アシモフ氏)の一人、アーサー・C・クラーク氏の最晩年の傑作長編『楽園の泉』(山高昭訳、早川書房、1980年、原著1979年)もそんな、当方にとっても思い出深い一冊である。
 宇宙開発が進み、太陽系各地へのロケットが日夜発着する近未来の地球。しかし、そのロケットのコスト、環境負荷は莫大なものに達していた。空に舞う凧を見つめている一人の技術者、彼はその問題を解決することができる、ある施設を、それが許されぬはずの聖地に建立するべく、信仰深い南の島国にゆらり、とあらわれる。
 ナノチューブはじめ諸技術の進歩で、近年脚光を浴びつつある、軌道エレベーター構想を軸に。第2次大戦下、通信技官として働きつつ、旧オーストリア・ハンガリー帝国の地方都市(現クロアチア)の一技師の残したアイディアをヒントに、通信衛星の具体的構想を練り上げた、クラーク氏ならではの、重厚な科学的構想に、「根回し」、「交渉」など社会面、そして「信仰と科学」という文明論までの深みを持った、息もつかせぬ傑作長編である。 
 しかし。クラーク氏たちが夢見た、人工衛星が、日々の日常にとけ込んだ今、空を見て、そこに目に見えるはずの「人工の星」たちに思いをはせる時間は、その衛星と今や、直接・間接であれ常に繋がっている携帯電話、端末の呼び声に奪われがちではないだろうか。
 下記、JAXAのサイトで。国際宇宙ステーション「きぼう」が東京ほか日本各地から目視できる時間・角度・その他詳細が紹介されている。

 http://kibo.tksc.jaxa.jp/

「とびきりの早起きをされて、是非、あの光を、直接見ていただけたら。」

 そんな電話を草森紳一、氏におかけしたら、どんなご返答がいただける、だろうか。

隠された小さな秘密

 草森先生が遺された蔵書の中には、スポーツに関する本が、かなりある。ざっと見積もっても、100冊以上。サッカーやテニス、そしてフィギュアスケートに関する本まで混じっているけれど、圧倒的に多いのは、野球に関する本だ。
 ご本人が、少年時代、野球をやってらしたからだろう。そのあたりの思い出については、『本が崩れる』(文春新書)に収められた「素手もグローブ 戦後の野球少年時代」に詳しい。ぼくも例のおでん屋さんで、「ノーエラーだったんだ」などと鼻高々なお話を、散々、聞かされたことがある。
 だが、スポーツが好きなこと、自分でもスポーツをやるということと、スポーツに関する本を読むということとは、だいぶ違う。スポーツ愛好者はこんなにも多いのに、スポーツに関する本がベストセラー・リスト入りすることはめったにない、という事実1つを取り上げてみても、そのことは明らかだ。
 何かが好きであること。何かを趣味とすること。そのことと、その分野に関する本を読むということとは、まったく別の次元のことなのだ。
 そこに、「本」というものに関する秘密が隠されているような気がする。必要な情報を「本」の形で手に入れるということは、他のメディアに頼ることとは、まったく違う。いわば、それ自体が「快楽」なのかもしれない。
 草森蔵書のスポーツ関連書の中で、ぼくの印象に残ったのは、いまや伝説の投手になった感もある、江川卓氏に関する本が目立つということだ。いくつか拾ってみると……
 伊藤幸四郎『怪物投手 高校野球の星 江川卓物語』(内外スポーツ新聞社、1973)、後藤寿一『江川卓の研究 管理社会を生き抜くための悪の思想』(茜出版、1982)、辻史郎『江川盗りの陰謀』(評伝社、1983)、ダイナマイト鉄『実録劇画 江川卓物語〈上・下〉』(竹書房、1989)などなど。
 遠藤一彦の『江川は小次郎、俺が武蔵だ!』(ロングセラーズ、1986)なんていう、威勢のいいタイトルの本もある。
 そんなことを思い出したのは、小林繁氏の訃報に接したからだ。「江川問題」のあおりを受けて、阪神へとトレードに出された巨人軍のエース。自身が「決闘」と呼んだ巨人戦での熱投は、スポーツオンチだった少年時代のぼくの心をも、奮わせたものだ。
 永遠の背番号19。ご冥福をお祈り申し上げます。

ログ。

あけましておめでとうございます。
旧年中はみなさま、ありがとうございました。
本年もどうか、よろしくお願い申し上げます。

 当方、ブログという単語を聞いたときに、まず思い出したのがBCL(Broadcasting Listening)のログ、であった。ログ(log)の原義は航海日誌であるが、しかし、BCLとは。1970年代前半から十数年ほどの間、流行していた、「趣味」である。近年、かつての「少年」の間で、「復活」の兆しも、見られるようだ。
 バチカン、西ドイツ、アルゼンチン、国連、などなど、海外二十数カ国から日本向けに日本語ラジオ放送が行われていた、その当時。短波ラジオで海外の放送を聞いて、受信状態、放送内容を、ログにしっかり書き留めて、放送局にエアメール(返信用の国際切手返信券:IRCを同封のこと!)で受信報告書を送ると。放送局はそのお礼として、ベリカード、なる絵ハガキのような証明書、時にはカレンダー、ポスター、あるいは切り絵などを返送してくれていたのだ。(今でも一定数の放送局は発行してくれるようだ)なぜ、海の向こうの子ども相手にそんなていねいな対応を?
 そもそも海外短波放送の場合、海外での電波伝播、聴取状態の実態調査は必要不可欠、であったようである。特に大予算・大出力で放送していたVOA(Voice of America)、モスクワ放送、などなどプロパガンダ政策の一環としての色が濃い放送局にとってはなおさらである。そのベリカードの収集をお目当てに、多くの子どもたちが、「英語の勉強」と言いつのり、現在のパソコンなみには高価な、プロシード(ナショナル:現パナソニック)、スカイセンサーソニー)などなどの短波ラジオをねだったものだ。当方も、またその一人である。
 田舎の本屋にさえ。1980年代前半までは、月刊誌『短波』(発行・日本BCL連盟)がおかれていた。『リグ・ログ・ラグ』(関口シュン先生)、『短波』誌上の連載ストーリーマンガ、も繊細な筆致の味わい深い佳品だった。
 唐突だが、この正月。当方がBCLをはじめて間もないころ、1979年、のログを発見してしまった。恐縮だが、その一部を、原文ママで引用させていただく。 

1979年8月30日 北京放送
  18:30〜19:00 7480KHz (当ログのSINPOコードは534445と記されている。55555の意か?/Living Yellow)
   18:29 局名アナウンス
   18:30 ニュース
       シアヌークでん下 北京をはなれ北ちょうせんへ

   18:35 ニイハオ中国語2
       動物 園へ行く道順のきき方。

   18:40 中 日の音楽の交流の実話
       びわについての話などやりゅう学生の話だった。

   18:45 民ようを聞く 台わんの民よう。
      「田おこしの歌」「どじょっこ」「ひよこ」「バランザンの歌」「思い」
   19:00 終了アナウンス

 そのころの北京、台北プノンペンピョンヤン。そのころの当方。国策として、1933年8月の初号機発表以降、数年で700万台以上の「国民ラジオ」を普及させた、という過去を背負った、そのころは、二つ、だったドイツ。
 そして当時、「文化」と「宣伝」、を見つめた労作『絶対の宣伝』(番町書房)、第4巻を上梓したばかりであったはずの、1979年8月の草森紳一、氏を思う。
 夜更けに。手元のトランジスタ・ラジオを点けてみる。遠い、さざ波のような、ノイズがかすかに。

蔵書をいったいどうするか(番外編)遺品をいったいどうするか

 クリスマスが過ぎて、今年も残り数日。この季節になるといつも思い出すことがある。
 30年ほど昔の12月25日だった。草森紳一さんに寄稿していただいた作品集が出来上がり、同僚と二人でお目にかかって何気なく、「今日はクリスマスですね」と言ったとき、
「エ〜〜ッ! クリスマスなんて(世間は)まだやってるの?」
 草森さんの素っ頓狂な声が返ってきた。一仕事終わった直後か、ボロボロの風体だった。浮世離れした人だと思うより、私は少し恥じ入った。ここは日本だから、確かに変なのは世間なのだと。

 さて、「蔵書をいったいどうするか」という連載は13回(11月22日付)でめでたく終了!
 3万冊余りの本たちは十勝平野のとある廃校で、厳しい冬を体験中だ。

 「ど〜〜うしよう!」と思うものは、まだまだたくさんあって、それらの整理整頓が次なる課題。とくに生原稿や赤字の入ったゲラの類は、70年代のボールペンのものから2000年代の毛筆のものまで膨大にある。蔵書と同じに帯広大谷短大に寄贈させていただく予定だけれど、整理が終わるのはいつになるやら・・・
 その生原稿類の一部が、独特編集の古書情報誌として名高い『彷書月刊』(09年10月号)で特集された。題して「草森紳一の右手」——

 『文学界』に掲載された「本が崩れる」の毛筆原稿や、『ユリイカ』連載の「荷風永代橋」の膨大な赤字が入ったゲラ、文化大革命の年表メモや、ああでもないこうでもないと目次構成を推敲している手書きメモなど。見ているだけで気が遠くなってしまう。これらをなんとか読解しつつ入力し、更なる果てしない赤字にも耐えた担当編集者の苦悩と快楽を想像すれば・・・・・・

 この『彷書月刊』の草森さんの写真に目を留めた編集者のHさんが、「あれ、草森さんダブルなんか着るんですか」と言われた。黒のダブルジャケットにバーバリーのコートを引っ掛けた90年代の写真だ。もちろんダブルも、三つ揃いもお召しになる。草森さんはおしゃれで、オーソドックスなものまできちんと着こなせる人だった。遺された衣類も大量!
 この黒のダブルの胸ポケットには疾走する虎と草森印を刺繍したエンブレムが付いていて、着ることに対する草森さんの遊び心がとてもよく分かる。
 草森さんは寅年で、虎は守り神だった。950冊だけ限定出版された『だが、虎は見える』(村松書館 75年)という本もある。門前仲町のあのマンションの本の山は、草森虎の住む竹林だったのかもしれない。

 さて来年は、お元気なら72歳の年男。亡くなってから7冊の本が出て、来年には4冊の予定が決まっている。草森紳一はいまだミステリーの存在。少しづつ物書きとしての全体像が見えてくるのだろう、とてもエキサイティングだ。
 みなさま、今年一年ありがとうございました。どうぞ良いお年をお迎え下さい!

三年。

 年も押しつまり。乱雑な自室で、一応の整理などしていた。あれこれ並べていて、ふと気になるものを、自分のものでないものを発見してしまった。今頃、すべて、北の地にあるはずの草森紳一、氏の御蔵書である。
 「新美術新聞 2006年10月21日号」((株)美術年鑑社)。
 当方のおぼろな記憶では、たしか、他の御蔵書にはさまっていたような。いや、言い訳はよしておこう。「確保」した今、あとは、きちんと分かるように封筒に入れておいて、お戻しする機会を待つだけだ。
 これも何かの縁だろうと。全体にざっと目を通す。
 トップはルーカス・クラナッハルーベンス、ファン・ダイク、レンブラントなど、ウィーン美術アカデミー所蔵の名作を擁する、ウィーン美術アカデミーの名品展(損保ジャパン東郷青児美術館)の記事。レンブラントの「若い女性の肖像」、それに、ファン・ダイクの自画像が紙面を彩っている。そして。一きわ大きく、クラナッハの「不釣り合いなカップル」。この最後の画、枠外上に、ボールペンで◎、がしるされている。もっとも全体の大見出しの下でもあるので、この◎がこの絵を指すものか、は判然としない。
 そして、その下に目を移す。「ルソーの見た夢、ルソーに見る夢 アンリ・ルソーと素朴派、ルソーに魅せられた日本人美術家たち」(世田谷美術館)の記事。2点図版が添えられている。アンリ・ルソー「熱帯風景、オレンジの森の猿たち」、岡鹿之助「信号台」。こちらには記事中、世田谷美術館の「田」の字の上に、ぽつんと小さな墨痕が。
 あとは。痕跡は、この紙上には何も残されていない。
 2006年10月。もう3年前。わずか3年前。

その先は永代橋 白玉楼中の人