崩れた本の山の中から 草森紳一 蔵書整理プロジェクト

「最後の文人」草森紳一は、2008年3月東京の自宅マンションで急逝しました。自室に遺されたのは山と積まれた3万冊余りの本たち。このブログでは、蔵書のその後をお伝えします。

「最後の文人」草森紳一は、2008年3月東京の自宅マンションで急逝しました。自室に遺されたのは山と積まれた3万冊余りの本たち。このブログでは、蔵書のその後をお伝えします。

コーヒーとおでんの間に

 永代橋のたもとの喫茶店で、コーヒーを飲みながらの打ち合わせが済んだら、近くのおでん屋さんに連れて行っていただいて軽く飲むのが、草森先生との間ではならわしとなっていた。ビール1本と、お酒を1、2杯、そして、おでんを少々。
 そのあと、霊岸橋のたもとのヴェローチェで、先生はたいていコーヒーゼリーをお召し上がりになり、ぼくは紅茶をすする。8時とか9時とか、遅くならないうちに、お別れをする。そんな、淡い時が流れていた。
 あるとき、打ち合わせの後、おでん屋さんが開くまでに間があったので、小さな古本屋さんに案内していただいたことがあった。そこは文庫本専門らしく、消防法には確実にひっかかるような配置で林立した書棚に、下から上までぎりぎりいっぱい、文庫本ばかりが並んでいた。
 先生は、ひょろひょろっと入っていかれて、造作もなくいくつかの文庫本を手にとって、仙人のような足取りでレジへと向かわれたものだ。ぼくも、ずっと気になっていた庄司薫のエッセイ集『狼なんかこわくない』(中公文庫)と『バクの飼い主めざして』(講談社文庫)を見つけてひそかに驚喜して、先生に見られるとちょっと恥ずかしいな、と思いながら買い求めたのを覚えている。もっとも、先生はそんなこと、気に留めてもいらっしゃらなかったけれど。
 草森先生と古本屋さんに行ったのは、後にも先にも、あのときだけだ。
 草森蔵書のリストを整理していると、先生は文庫をたくさんお買い求めになったんだなあ、とつくづく思う。現時点ではっきりしているものだけで、約4200冊。全体の7分の1くらい。「○○文庫」と入力し忘れたものもあろうかと思うので、実数はもっと多いことだろう。
 文庫本は、1927(昭和2)年7月刊行の岩波文庫をもってその嚆矢とする。蔵書の中には、ラスキン著、西本正美訳『芸術経済論』や、森鴎外『埋木』など、その当時のものも含まれている。かと思えば、フィリップ・K・ディックの作品群を中心としたサンリオSF文庫や、社会思想社の現代教養文庫など、出版史に名を残しつつ、現在ではなくなってしまった文庫も。
 日本独特のこの小さな判型の書物たちが、ぼくたちにいかに多くの喜びを与えてきてくれたか。リストを眺めながら、そんなことを思う。

*  *  *

 昨日(2009年12月8日)の『読売新聞』朝刊文化面「記者ノート」欄に、川村律文記者による「草森紳一さん 蔵書が故郷へ」という記事が掲載されました。「本と知を受け継ぐ物語は、まだ続いていく。」という結びが印象的です。ありがとうございました。

悲劇。

 少年時代は野球に熱中し、相撲を愛した草森紳一、氏の御蔵書にも、スポーツ関連の本がそれこそ、箱になるほど、あった。しかし、そのスポーツへの位置どりは一筋縄ではいかなかったようである。巨人ファンでいらしたようだが、そのありようは独特である。下記、ご自身の文章から引用させていただく。
 <私は根っからの巨人ファンであるけれど、巨人が負けた時のほうが、勝った時よりもよっぽど嬉しくなるという妙に倒錯したファン気質にと、最近は変化してきている。> (1971年、ISEZAKI 11月号掲載、「日曜日の校庭」より)
 これは、まるで。かつてのタイガースファンの心性では?
 19841985年、ニューアカデミズムの残照もさることながら、タイガースがとにかく、強かった、あの夏。UHFでのタイガース戦中継を見るために、風雨をものともせず、自ら、自宅の屋根でTVアンテナを調整するのに奮闘していたという、柄谷行人氏。柄谷氏はそのわずか、6、7年後には、ナショナリズムについての、とある講演で、大体、次のようなことを述べておられた。以下、不確かな記憶に基づいた、記述になるが、どうか、お許しいただきたい。
 <ナショナリズム、とは悲哀の共同体なのです。そう、負け試合の後半に、甲子園球場の一塁側スタンドに渦巻いている唸り、あれ、です>
 柄谷氏、浅田彰氏共同編集の思想誌「批評空間」(当時は福武書店での刊行)が元気だった頃に、都内で行われた講演会でのこの発言。大きな会場の席を埋め尽くした聴衆の反応は、薄かったようだが、分かる人には、早く言えば、かつてのタイガースファンにはこれまた、ジーンとくる一節である。そう、ゼロ年代の強くなった、タイガースを素直に受け入れられない人々にはなおさらだろう。
 かつての、タイガース。悲劇=敗北を排除することを目指す、本来の近代スポーツシステムの中、ほぼ唯一といっていいほど。悲劇を軸とし、悲劇に親しみ、味わうことを旨とする。
 てっとりばやく言ってしまえば。おそろしく弱くて、でもファンになったら、もう辞められない。そんな球団だったのです。球団というより、「劇団」と呼ぶべき。そんなタイガースが、真弓監督のもと。「悲劇団」として復活してくれそうな昨今。
 実際に、負けると。当方も、やっぱり、う、う、う、と唸っているのだけども。

蔵書をいったいどうするか(13)北への帰還。そして、新たなる出発へ!

 とうとう本たちは行ってしまった。
 草森さんも一緒だろうか。十勝の自然をとても愛していたから。

 草森蔵書3万冊余りを受け入れてくださる大学があったこと。その場所が草森さんの故郷で、受け入れてくださる方々との信頼関係もきっちりできたこと。
 ちょっと言葉では表せないほどありがたく、安堵したのは間違いないのだけれど、うれしいのか、寂しいのか、よくわからないような日々を過ごしている。気が抜けて、“な〜〜んにもしたくない病”にかかったような……
 そんなわけで、この連載上でのご報告やお礼が遅くなってしまった。申し訳ありません。

 私自身について言うなら、単に本たちを売ったり捨てたりできなかっただけ。遺族や親しい友人なら、誰しもが同じように感じると思う。しかし捨てざるを得ないのだ、ほとんどの場合。幸運にも草森さんの本たちは、多くの方々の協力で捨てられないですんだ。

 蔵書整理を始めたのが去年の6月。第2部と言って目録作りを始めたのが去年の10月。この頃、ある企業から草森紳一文庫を建てましょうというご提案をいただいていた。夢が大きくふくらんでいたのに、「諸般の事情により」見送られてしまう。
 それからのみんなの踏ん張り。ブログのスタートにHPの開設、目録入力の進行を思い出すと、文庫見送りは神さまのお考えだったのではと思えるほどだ。
 しかし入力は着々と進むものの、蔵書を一括で寄贈できる所はなかなか見つからなかった。

 入力終了を間近かに控えた4月頃、帰りの電車の中での会話。

「10月から初めてもう7ヵ月ですね。〆切りを作って、受け入れ先がなければないで処分を考えないと…先生のように次号完結、次号完結って延ばしていられませんよね。倉庫代もかかるし、みな生活に戻っていかなければなりません」
 グサッと胸にこたえた。蔵書の内容を熟知し、目録の校正も分類も、まだまだやることがある、やりたいという気持ちを抱えたうえでの言葉なのだ。
 とくに倉庫代の負担は大きかった。私たちはみんなお金持ちではないし、プロジェクトのバックにスポンサーが控えているわけでもない。早く頭を切り替えて生活の建て直しを考えなければならない……だけど、北海道から届いた一通の返信が私を踏みとどまらせていた。
 それは帯広市図書館の吉田館長からのご返事で、「3万冊の個人名を冠した文庫スペースを確保するのは公共図書館では難しいけれど、個人的には草森紳一氏の蔵書は十勝にあって欲しい。差し支えなければ他に打診をしてもよいでしょうか」という内容だった。
 このお手紙に賭けてみよう、そう思ったのだった。

 それからのことは今までの回でも触れたように、幸運が続いた。(実を言うと一筋縄では行かなかったけれど、結果を見れば、やはり草森マジックと今さらに思う)
 4月末、もっと宣伝しましょうとチラシを作ってくれる人が現れ、5月、6月、雑誌や新聞の取材がタイミングよくそれに続いた。そして、いろいろいろいろあって、私たちが目標にしていた故郷の帯広大谷短期大学浄土真宗系)への一括寄贈が実現したのだ。
 道筋を作り、ご尽力いただいた吉田館長と周辺の方々、音更町長と町民のみなさん、そして帯広柏葉高校時代の草森さんの同級生や友人たちの陰ながらの応援など、たくさんの方々の情熱が一つになった結果だと思う。

 大英断を下してくださった中川学長はじめ教授会の方々、ボランティアの仲間やブログを読んでくださった方々、すべてのみなさまに遺族より心からお礼を申し上げます。

 本たちが音更町の廃校に到着したその日、田中教授から届いた第一報。
「想像よりも遥かに凄まじい段ボールのたたずまいに、しばし呆然。〜〜いやはや驚きを通り越して笑う?だけでした。(中略) 我々の知的冒険の出発点に立ち、今日はびびるのみです。お許しのほどを。明日からは建設的に、且つ、積極的に頑張っていきたいと考えています」。

 さあ、草森紳一の本たちは音更のみなさんにバトンタッチされた。スケールアップして、「蔵書整理プロジェクト第3部」が始まる。
 作業に携わってくださるみなさんには、円満字さんの言葉「微速前進でまいりましょう」をぜひプレゼントしたい。折にふれ私たちを勇気づけてくれた言葉だから。

 東京で一緒にやってきた仲間はみなワクワクしている。
 関係者の皆様方、くれぐれもよろしくお願い申し上げます!

不在。

 氏の御蔵書、その中の数千冊にのぼる、マンガのリストをしばらく、眺めていて、ふと、あるマンガ家の作品が見つからない、のに気づいた。
 業田良家先生。80年代中期、『AKIRA』(大友克洋先生)連載中の「ヤングマガジン」誌上、『ゴーダ君』を連載、本格ストーリー四コマの地平を地道にしかし、決定的に切り開いていた。たぶん彼の存在なしには、現在の西原理恵子先生、森下裕美先生のあり方も大きく異なったものになっていたであろう。
 その後、阿部寛氏、中谷美紀さん主演で映画化に至った、ストーリー四コマの金字塔とも呼びうる、『自虐の詩』(80年代末〜90年代初頭にかけて「週刊宝石」(光文社)連載、竹書房文庫収録)を生み、そして、現在、是枝裕和監督、ぺ・ドゥナさん主演で、好評上映中の映画『空気人形』もまた、『ゴーダ哲学堂』(竹書房文庫、2007年)収録の一短編の忠実な映画化作品である。
 『シアターアッパレ』をはじめとする政治マンガ、『独裁君』など国際政治マンガにおいても、他の追随を許さない、業田良家先生の諸作品。しかし、御蔵書の中にはまだ発見されていない。
 もちろん、全てのマンガを読んでいる人など、いない。これは間違いない。しかし、御蔵書の中にあるものについて、書く、という暗黙の了解をここではあえて破ることにする。「不在」のマンガについて、書く。
 業田良家先生の諸作品に通底しているのは。「不在の存在」とでも呼ぶべき主題である。『男の操』(小学館、2006年)を挙げれば、それは、録画されたビデオテープの中に存在しているという幻想を、遺された父子が必死に支えている、今は亡き妻、母の存在である。事実上の先生のデビュー作『ゴーダ君』に立ち戻れば、ゴーダ君が風呂なし四畳半で貧乏バイト生活をして無理矢理、支えているのは、帰ろうにもなかなか帰れない、地球からはるか遠く、宇宙に浮かぶ故郷の星のすっからかんの財政である。『独裁君』が北の国で、「独裁」を続けたのは、やがて訪れる自らの「不在」への果てしない恐怖からである。そして、『空気人形』の彼女は、文字通り、その内側の「不在」に支えられている。
 そう。こんな「不在の存在」について。草森紳一、氏と業田良家先生について、語りあえたら、と思ってしまった今になって。一読者に過ぎない当方は、氏の「不在」をはじめて認識しているのかもしれない。 
 <形がないから
 あなたは消えないと言った

 それが男と女の操>
(『男の操』、作詞 五木みさお、『男の操』下巻、より)

それだけでニュースになるのだ!

 帯広大谷短期大学から、新聞の切り抜きをお送りいただきました。1つは、『十勝毎日新聞』11月11日付夕刊。

音更出身の作家 故草森さんの蔵書
帯広大谷短大に寄贈 公民館に3万冊到着

と見出しが付いています。もう1つは、翌日の『北海道新聞』の朝刊。こちらの見出しは、次のようなものです。

音更出身草森さん「遺産」活用へ
蔵書3万冊受け入れ開始
帯広大谷短大 廃校を保管庫に

 「到着」したとか、「受け入れ開始」というだけでニュースになるとは、さすがわれらが草森蔵書!
 『十勝毎日新聞』の記事には、「この日、表に「海外文学(ミステリー、サスペンス)」「文学(SF関連)」などと書かれた段ボールが次々と運び込まれた。」とあります。引っ越し屋さんたちが箱を担ぎ込むようすが目に浮かびますね。たしかにそんな箱、ありましたなあ。他にも、「穴」とか「橋」とか、ユニークな箱がいっぱいありました。
 『北海道新聞』は、今日に至るまでの経過を「草森さんの遺族が今年3月、東京のマンションに残された膨大な蔵書の寄贈を同短大に打診。町教委は、26年前に廃校となり現在は一部を公民館に使っている、旧校舎の貸与を申し出た。短大側も「大学で大切に扱い、地域貢献につなげたい」と受け入れを決めた。」とまとめています。そして、「旧校舎の保管庫づくりは、町教委職員が清掃や修繕で協力した」ともあります。地元の方々の善意に支えられて蔵書が「里帰り」できたこと、ほんとうに感謝しております。

 ホームページ「白玉楼中の人 草森紳一記念館」に、大竹昭子さんの連載「目玉の人 草森紳一と写真」の第5回をアップしました。「写真」という観点から、若き日の草森先生を評伝風に語るこの連載、しだいに佳境に入ってまいりました。草森紳一は、どのように写真と出会い、どのような刺激を受けたのか? ぜひ、ご一読ください!

その朝は、雪。

 11月9日、月曜日。晩秋の太陽が傾き、明るい中にもどこかけだるさを感じさせる光に包まれた、午後3時ごろ。
 もう1年半近くも、東京都内のとある倉庫に閉じこめられていた蔵書たちは、格安の見積もりをしてくださったとある引っ越し屋さんの4tトラックに積み込まれて、旅立って行きました。
 目指すは、新潟港。そこからフェリーにえんえんと18時間ばかり乗って、苫小牧港に着き、さらには北海道の南部を龍の背骨のように南北に走る日高山脈を越えて、音更町へ。2泊3日、まさに「旅」と形容するにふさわしい行程です。
 ただし、4tトラックに無事に収まったのは、全体の85%ほど。さすがに草森蔵書、経験豊かな引っ越し屋さんの予想をも上回ってしまったその量ゆえ、100箱ばかりは積み残しという事態に。急遽、手配された第2便の2tトラックによって、こちらは少し遅れて午後4時半ごろに倉庫を出発、JR線で北へ向かいました。



 火曜日の夜から、十勝地方は雪。第1便が音更町のとある廃校に到着したのは、その翌朝。帯広大谷短期大学のみなさんがお迎えくださる中、早速、積み荷を降ろす作業が始まりました。9時ごろから始めて、完了したときには、すっかりお昼を回っていたとのこと。いやはや、おつかれさまです。
 さて、その名も高き青函トンネルをくぐり抜けた第2便が到着したのは、本日、11月13日の金曜日の午後のこと。午後3時40分、田中厚一教授から、無事にすべての受け入れが完了したとのご連絡をいただきました。
 仮に1箱4kgと見積もって、約730箱で2920kg=2.92t。それだけの重量のモノが、無事に旅を終えたということ自体、なんだか奇跡のような気がいたします。蔵書の旅にご協力いただいたみなさま、ありがとうございました。
 さて、これからこの膨大な蔵書たちは、どのような物語をつむぎだすのでしょうか……

窓。

 草森紳一、氏の御蔵書は、とある現在使われていない学校の、教室に置かれることになっている。もちろん、公開される予定の記念室にも膨大な数の御蔵書が、並べられる。いわば、一般の図書館の閉架書庫の役割をこの教室が果たすことになる。
 この教室の写真をお送りいただいて、まず、写真の中の窓を、眺めていた。教室の内側から窓の外を眺めたのは、正直久しぶりだった。
 かつての黒柳徹子氏の大ベストセラー『窓ぎわのトットちゃん』、ではないけれども、当方も、教室では、黒板よりも窓の外を眺めてばかり、だったように思う。
 おそらく、公的な学校建築にはきちんと規制があるのだろう。窓がない教室、というのは、実は日本に、あまり存在しないのかもしれない。
 もちろん、草森氏が黒板を見ない子どもだった、などというつもりはない。
 しかし、当たり前だが、まったく教室の窓を見ない、子どもというのは、想像しがたい。窓の外に広がる、空はおそろしく広く、小一時間ごと、教室の小さな机に、座っていなければならない、子どもたちを誘惑してやまない。そして、運動場から歓声がする。笛がなる。場合によっては、怒声が飛ぶ。遠くから菓子パンの移動販売車のテーマが流れる。
 教室の中の子どもは、窓を見る。教室の外に広がる、広い世界を見る。
 やがて、歳をとった、子どもの視界に、自動車の車窓越し、ほんの通りがかりに、学校の、教室の窓が入ってくる。しげしげと眺めることもないだろう。ただ、硝子の反射光に目を細めるのが、関の山かもしれない。
 そして、ある時からは、物言わぬ本の山が、その窓の中から、彼に視線を返す。
 彼は気がついてくれるだろうか。
 あるいは、その時、本は本で、彼などお構いなく、ずっと遠く、春の空を見ているのかもしれない。

その先は永代橋 白玉楼中の人