入試が終わって、通っていた、小さな進学塾の塾長さんが、みんなに、結構な額の図書券を「お祝い」として、配ってくれた。喜んでうっかり親の前で開けたが運の尽き。ご自分でそれぞれ内容解説を書いてくださった、英・数・国・社・理の、これから、買うべき、おすすめ参考書リストが入っていた。
それからの、その図書券がたどる運命を思い、正直げんなりしながらも、『古文研究法』、『国文法ちかみち』(ともに洛陽社、初版から半世紀近くたった現在まで版を重ねている)の名とともに、小西甚一氏の名を、その時、初めて知ったことになる。
教育と研究。ともに教師の仕事ではあるが。なかなか両立は難しい、と聞く。
上記の、ロングセラーであり、ベストセラーであり続ける、優れた参考書群の執筆、学術論文『文鏡秘府論考』(1952年、講談社、学士院賞受賞、現在入手困難)、大著『日本文藝史』(1985年〜1992年、講談社、大佛次郎賞受賞)などを一身で成し遂げた、小西甚一氏。
講義体の本書のみずみずしい、文章からは「学制改革」の前の、「旧制中学・高校」と「戦後」がほんの数年間、交錯した、一種の光芒ともいうべき、厳しい知力の漲った、「文化」の匂いがするような気がする。
<いよいよ最高峯にさしかかった。なんと言ったって、俳諧のエヴェレストだから、登るには骨が折れる。しかし骨を折らずにこの高峯を越えようとは、ちと虫のよすぎる話。書くわたくしだって、無い智慧をいっしょけんめい絞っているんですからね。まあ辛抱して付きあってください。>(本書、p.90、第4章、芭蕉、冒頭部より)
そんな「峯」を遠く離れた、昭和後期の林間学校。いつか、当方に。「クリント・イーストウッドのな。『奴らを高く吊るせ』はな。むっちゃ、ええぞ。観ておけや」と教えてくれた、ガクラン、ボンタンに軽いそり込み、少し、しかし明らかに「ヤンキー」がかった、同級生が、銀塩写真を無邪気に撮り合う、松田聖子ちゃんカットの女子たちから、遠く離れて。一人森の中で。
「山の中 ああ山の中 山の中」と何度も大声を張り上げていた。
しっかりと、五・七・五、であった。
風立ちぬ。昭和も遠く。今は秋。