昔も今も。親の目を憚る、ごみ、というものはある。とっぷりと日も暮れた、塾帰りのガキどもは、そんな古雑誌を求めて、裏山や公園の茂みに連れ立って、「探検」に出かけたものだ。必ず、いろいろな「収穫」があった。多くはきっちりと、束ねられた、それらを解いて、分配して。しっかり確かめる余裕もなくショルダーバックに押し込んで、急いで自転車を漕いで部屋に帰るのだ。
当方の「ヤングジャンプ」(集英社)との出会いもそんなものだった。下っ端だったので、「水着があるよ」、「『俺の空』(本宮ひろ志先生)載ってるし」との甘言にもほだされて、なんとなく、一番「薄い」のを選んでしまったのだ。
確かに表紙には蠱惑的な水着姿の美女。しかし中身は。いきなり『キャンパス・クロッキー』(八潮路つとむ先生)。悶々たる世界が広がっていた。『ネコじゃないもん!』(矢野健太郎先生)は今思うと、高橋留美子先生の作品世界と並行していたのだろうか。なぜか、全体に関西色、今になって思えば、大阪芸術大学、および、あの小池一夫先生、主宰の「劇画村塾」の色彩がにじみ出ていたような。至極まっとうなマンガ雑誌だった。当方の青年誌とのつきあいは、それから二十年以上続いた。今では専ら蕎麦屋だけでのつきあいだが。
ただしフェチシズムのベタ化に大きく貢献した『変』、決断主義の先取りとも呼びうる、『GANTZ』などの傑作をものした奥浩哉先生のこと。コマのところどごろに現れるさりげない「歪み」は、その物語軸をも、ひずませ、「御都合」の新たな地平を期待させてくれる。
『めぞん一刻』(高橋留美子先生)が老人ホームの書架にあふれる日も近い。かつての青年たちはいま。どんな「御都合」を胸に潜ませて、日々をしのいでいるのだろうか。