崩れた本の山の中から 草森紳一 蔵書整理プロジェクト

「最後の文人」草森紳一は、2008年3月東京の自宅マンションで急逝しました。自室に遺されたのは山と積まれた3万冊余りの本たち。このブログでは、蔵書のその後をお伝えします。

「最後の文人」草森紳一は、2008年3月東京の自宅マンションで急逝しました。自室に遺されたのは山と積まれた3万冊余りの本たち。このブログでは、蔵書のその後をお伝えします。

ケチョンケチョンに言われても!

 売れるべくして売れる本も、もちろんある。しかし、売れるはずなのに売れない本もあれば、売れそうにもないのに売れる本も、たくさんある。まったく、出版は、水ものだ。



 『中央公論』1936(昭和11)年7月号の別冊付録、ルネ・ジューグレ『日出づる国』(小松清訳)。主人公は、日本陸軍の若手将校、鈴木中尉と北野中尉。はるか「満洲」の地へと出征した彼らを待っていたのは、苛酷な現実だった。厳しい自然、不安定な治安、そしてソヴィエト軍の脅威……。そんな中でも、鈴木は亡命ロシア貴族の女性と愛を育み、北野は鈴木の妹への思いを抱き続ける。
 しかし、やがて帰国した二人を、時代はさらに翻弄する。ソヴィエトのスパイと疑われた鈴木は「名誉」を守るために自殺し、政界と財界の癒着にいきどおった北野は、「正義」のために首相暗殺のクーデターを起こすこととなる。
 本書の表紙には「フランスの作家によって描破された現代日本断層面!」とある。しかし、中央公論社がこの作品を翻訳しようと考えたのは、もう1つの惹句、「二・二六事件勃発の一週間前にフランスで出版された問題の小説!」の方にある。
 日本近代史上最大のクーデターとされる二・二六事件が起こったのは、この年の2月26日。当時の日本は、中国大陸や東南アジアの権益をめぐって欧米諸国と争う、まぎれもない「東洋の大国」であった。その日本を舞台として、若手将校のクーデターで終わるこの小説が、クーデターの1週間前に刊行されたとすれば、ヨーロッパでも話題を集めたことは想像に難くない。
 訳者による解説によれば、ジューグレという作家は「決して偉大な小説家とも一流の作家とも呼ばれる人ではない」らしい。その力量についても、「個人の心理やモラルを把握することはむしろ未熟」とケチョンケチョンだ。しかし、『日出づる国』に関しては、「タイミング」という名の神が、ジューグレ氏に微笑みかけたのである。
 訳者が中央公論社から翻訳の依頼を受けたのは、5月の31日だという。奥付によれば、印刷は6月19日。200ページ近い小説を、これだけの期間で翻訳し、印刷するのは、なかなかの突貫作業だ。やはり、出版はタイミングなのだ。
 しかし、そこまでして本書の出版を急いだ中央公論社の真意は、いったいどこにあったのだろうか?
 二・二六事件以後、軍国主義体制は急激に進展していく。治安維持法によって『中央公論』が廃刊させられるのは、太平洋戦争のさなか、1944(昭和19)年のことである。

その先は永代橋 白玉楼中の人