崩れた本の山の中から 草森紳一 蔵書整理プロジェクト

「最後の文人」草森紳一は、2008年3月東京の自宅マンションで急逝しました。自室に遺されたのは山と積まれた3万冊余りの本たち。このブログでは、蔵書のその後をお伝えします。

「最後の文人」草森紳一は、2008年3月東京の自宅マンションで急逝しました。自室に遺されたのは山と積まれた3万冊余りの本たち。このブログでは、蔵書のその後をお伝えします。

芸者。

 芸一筋といえば、江戸落語の世界では、深川の辰巳芸者、柳橋芳町、新橋の名前が良く挙がる。本音と建前が不分明な世界ではあるが、所謂、花魁、太夫の方々の活躍する廓と、これらの芸者さんたちの世界、一応は分けて考えておいたほうが、落語を聞くにも都合がいい。建前としては、彼女たちの本分はあくまで、唄、踊り、三味線である。所謂、「ゲイシャガール」の語が持つ、海外での印象とは、それなりに、距離がある。

 さて、とはいえ、元より、遊行の性を持つ彼女たちのこと、どのように海外における「ゲイシャガール」のイメージを形作ったのか、実際、いつ、どのように海を渡ったのか。文字資料が残りにくい、浮草稼業、のこと、たどるのは難しい。落語家、幇間、曲芸師、軽業師をはじめとする芸人の方々についても同様である。
 草森紳一、氏の御蔵書中の『異国遍路 旅芸人始末書』(宮岡謙二、中公文庫、昭和53年(1978年)、原著、修道社、昭和34年(1959年))。明治に生まれ、大正、昭和と大阪商船(現在の商船三井、の前身の一つ)に長年勤務、自身もまた豊富な海外経験を有する著者による本書、幕末、明治に海外に「雄飛」した、芸者、芸人、川上音二郎をはじめとする演劇人、音楽人、果ては軍人、留学生の方々の消息を丹念に追いかけた労作である。
 諸説あること、とはいえ、本書によると、海外への第一歩を記した、芸者さんは。
 慶応三年(1867年)正月十一日、横浜を出帆した英国船アルフェー号に乗り込み、香港で乗り換え、スエズ運河を経由、同年二月二十九日、仏蘭西はマルセーユに上陸した、江戸柳橋の芸者、おすみ、おかね、おさと、のお三方であるようだ。目指すはパリ万国博覧会。その一隅に小さいながらも一パビリオン「日本茶屋」を設営。檜造りの六畳間、土間、ご不浄までしつらえ、松のうす板に竹をつけた高塀をめぐらし。見物客は中庭の床几(しょうぎ)に腰を下ろし、安藤為八、の手になると思われる、活人形を眺め、彼女たちに茶を煎じてもらったり、古味醂酒(落語『植木屋』(『青菜』)に登場する、なおし、上方でいう柳蔭、に近いものだろうか)を注いでもらう、という趣向である。
 「ちょっとみると、浅草あたりの水茶屋のようだ。」(本書、p30より)
 このパリ万博では、必死の面子をかけた幕府、薩摩藩佐賀藩と、幕末の日本国からの公式出展が三分裂。三者銘々に、旭日旗と藩旗を掲げ、三つどもえ、角突き合わせていたようだけれども。
 「やはり、博覧会の圧巻は、なんといっても、見世物に現われた足芸人の軽業と、茶屋にはべったゲイシャの美形であった。」(本書、p.32より)
 花より団子とはいうけれど。花は剣より強かった、というところか。巴里での、とんだ狐拳、であった。

その先は永代橋 白玉楼中の人