崩れた本の山の中から 草森紳一 蔵書整理プロジェクト

「最後の文人」草森紳一は、2008年3月東京の自宅マンションで急逝しました。自室に遺されたのは山と積まれた3万冊余りの本たち。このブログでは、蔵書のその後をお伝えします。

「最後の文人」草森紳一は、2008年3月東京の自宅マンションで急逝しました。自室に遺されたのは山と積まれた3万冊余りの本たち。このブログでは、蔵書のその後をお伝えします。

クラッシックとの相性



 去年の6月末、東京の九段会館で「草森紳一をしのぶ会」が催された。その席上、先生と親しかった方々のスピーチももちろん印象に残ったのだが、ぼくの記憶に最も鮮やかな影を留めたのは、飾られた遺品の1つ、ぼろぼろになるまで使い込まれた漢和辞典だった。
 塩谷温『新字鑑』。初版は1939(昭和14)年の刊行である。
 漢和辞典の歴史は、1903(明治36)年に三省堂から刊行された『漢和大字典』に始まる。この辞典、大きさは、だいたい現在のA5判と同じくらい。ページ数は2000ページ近く。いわゆる「座右の書」といった感じで、かばんに入れて持ち歩けるようなシロモノではない。以後、大正から昭和戦前にかけて、漢和辞典の主流となるのは、このタイプのものだ。中でも、1917(大正6)年初版の『大字典』だとか、1923(大正12)年初版の『字源』などは、いまでも古本屋の軒先に転がっているのを見かけることがあるくらい、広く流布したものだ。
 そんな、いわば「クラッシック」な漢和辞典の掉尾を飾るのが、『新字鑑』なのだ。日中戦争の真っ盛りに刊行されたこの辞書には、各漢字に北京語での発音が示されていたり、付録に「支那書翰文定用語句」なんてものが付いていたりと、時代の色がありありと刻印されている。しかし、「大陸への夢」を絶たれた戦後日本では、漢和辞典の歴史もいったん中絶してしまうのである。
 『図書新聞』2000年4月8日号に掲載された、草森先生の「辞書に相い性あり」という文章によれば、先生と『新字鑑』の出会いは、学生時代のことだという。以後、愛用歴40年。ぼろぼろになるまで使って、とうとう買い換えることになった。だから、遺品として遺されたのは2代目、1980(昭和55)年に国書刊行会から発行された431版である。
 草森先生は、『新字鑑』とは「相い性」がよかったのだという。あるとき、『新字鑑』を忘れて旅に出てしまい(いつもはバッグに入れて持ち歩いていらしたようだ!)、旅先でどうしても漢和辞典を引かざるをえない状況となった。しかし、旅先の友人宅で借りた漢和辞典には、自分の必要とする語句が1つとしてのっていない。それは、その辞書が悪いのではなく、自分との「相い性」がよくなかったのだ、と。
 しかし、それは、辞書との「相い性」だけだったのだろうか?
 友人宅で借りたのは、おそらく戦後もだいぶ経ってから刊行された、学習用の漢和辞典ではなかったろうか? 草森先生が漢和辞典を引くのは、主に副島種臣をはじめとする明治ものをお書きになるときだったという。「明治」を追い求める先生と、高度成長の中で生み出された学習漢和辞典と。「相い性」がよかろうはずもない。
 草森先生と「相い性」がよかったのは、『新字鑑』であるというよりは、「クラッシック」な漢和辞典が背負っていた「時代」そのものだったように思う。

その先は永代橋 白玉楼中の人