ボンカレーの看板、アメリカン・クラッカーなどなどを「懐古」する、70年代本として刊行された、『別冊宝島』のある一冊が人気を博して、もう四半世紀が経つ。
年若い友人と話していて、「あの浮ついた90年代の感じなんです」という言葉に絶句して、もう十年近くが過ぎた。若いつもりが、歳はとった。しかし、順序から言えば、80年代本、90年代本がもてはやされてもおかしくないはずが、書店の棚を賑わすのは、やはり、60年代本、70年代本である。80年代に何かが終わったか、始まったか、したらしいことは確かなようだ。
もし、若い人に、一冊、80年代本を、と聞かれたら、岡崎京子先生の『東京ガールズブラボー』(宝島社)が生き生きと、かつ冷静に、あの時代を「懐古」した作品であるのだ、などと偉そうに、言ってみたくなるだろう。そして、90年代本を、と聞かれたら。
「ともだち」と呼ばれる謎の人物が率いる団体が、合法的に、しかし確実に世界支配を進めていく。その「支配」は「世界征服を狙う悪」との戦いの名のもとに進行する。しかし、その支配シナリオの根本にある「よげんの書」とは。主人公ケンヂたちが遙か昔、70年代の子どもだったころに書いたものだった。そしてその「書」には「世界の終わり」も記されている。自らの書いたシナリオそのものの結末、から世界を救うため、ケンヂ「一味」は「ともだち」の正体を突き止め、戦わなければならない。
この作品で起きる破壊と混乱は、1995年に起こったことどもを排除せずに90年代全体を「懐古」している、と言ったら、言い過ぎだろうか。だから。この「懐古」には終わりがなかなか訪れないし、現在とも絶えず、混じり合い続ける。
95年の1月、朝早く、目を覚まし、TVを点けた。黙って、見ているうちに、不安になり、誰かに電話した。帰りの電車、夕刊紙の見出しには「あの団体も救援活動開始!」の黄色い文字が踊る。
阪神・淡路大震災の惨状の詳細が明らかになってきた、95年の3月、午前10時ごろだったろうか。遠方に住む友人から、突然職場に電話がかかってきた。
「久しぶり。どした?」
「無事だったか。とにかくTV見ろ!」
95年、その当時に海外にいた幾人かの友人に、それ以前と以後の変化を伝えようと、何度か試み、そのつど挫折してきた。そういう場合、可能性は二つある。明晰な言葉で伝えるに足ることは何も起きていないか。あるいはことが大きすぎて、言葉自体が変容してしまい、まだ、言語化することができないか、だ。
<「だから、まだまだ、死ねないんだよ!!」>(本書(完結巻)、最終頁より)