廬山(ろざん)といえば、中国を代表する景勝の地である。古くは、陶淵明(とうえんめい)や白楽天といった名だたる詩人たちが遊んだ場所であり、近いところでは毛沢東の別荘があったことでも有名だ。
1921(大正10)年4月下旬のある日の昼下がり、この山の山頂へ至る道を、日本人の男が一人、とぼとぼと歩いていた。付近の史跡巡りをすませて、疲れた脚を引きずりつつ、宿へ帰ろうとしているのである。
ふと行く手を見ると、赤牛が一匹、悠々と歩いている。あたりを見回しても、飼い主らしい人影はない。牛の向かう先も、山頂方面のようだ。男はこれ幸いと、牛の背中に飛び乗ってみた。気づいたか気づかぬか、牛は相変わらず泰然と、山道を進んでいく。
すると大変。牛は急にいきりたって、山道を一目散に駆けだしたではないか! もともと乗馬の心得もないこの男は、振り落とされんばかり。岩だらけの山道に放り出されたのでは、大けがのおそれもある。絶体絶命のピンチである。
結局、平らな道に出たを幸い、かろうじて飛び降りて難を逃れたこの男、次のように記している。
「昔老子様は青い牛に乗って函谷関(かんこくかん)を悠暢に過ぎ去つたといふことであるが、今の自分は赤い牛に乗つて洵(まこと)に恐ろしい経験をなしたものである。」
男の名は、諸橋轍次(てつじ)。後に、不屈の志をもって史上最大の漢和辞典『大漢和辞典』全13巻を完成させることになる、昭和を代表する漢学者だ。このとき、37歳。
『遊支雑筆』(目黒書店、1938)は、諸橋が、主に30代後半、中国に留学していたころの見聞を記したもの。書斎に正座して、辞書の校正刷りを見つめている大学者ではなく、中国各地を嬉々として歩き回る、若き学者の生き生きとした姿がほの見える。
こんど『大漢和』のページを開くときには、赤牛に乗って目を白黒させている諸橋轍次を、思い浮かべてみることにしよう。辞典の行間から、今までとはちょっと違う、なにか温かいものが感じ取れるかもしれない。