当たり前すぎる話だが。紙に描かれた絵から音は出ない。音楽など夢物語、ロックにせよ、ジャズにせよ。いや、そんな暢気なことを思って、うかうかしているのは、当方くらいで。携帯、読書端末で読むマンガ、においては、すでにBGMの域を超えた、音楽、音声の活用が定着しつつあるのかもしれない。
ゲームはとっくの昔からゲーム音楽抜きで語ることはできない。
考えてみれば、『ゼビウス』以降のゲーム音楽の本格化、深化は、より多くの時間、人々を画面に吸い寄せることに寄与した。例えば、『スーパーマリオブラザーズ』のテーマも、生演奏に際しては、アコースティック・ギターの名手、押尾コータロー氏にして、決して気を抜けない、相当難しい曲らしい。それだけの構想力が、この三十数年、ゲーム音楽には注がれてきたのだ。
『センネン画報』(今日マチ子先生:紙版単行本、太田出版から発売中)の成功など、マンガが紙媒体を離れはじめつつある、とも言える今、マンガの音、特に音楽をめぐるマンガにおける表現技法の歴史は、あるいは、「じゃ、音声ファイルをここに貼って」という、音そのものによる、音声の表現によって、近々幕を閉じるのかもしれない。
とはいえ、草森紳一、氏の御蔵書の中でも、真新しい、この『BECK』(ハロルド作石先生:拙文、BK1書評ポータルに掲載)と『NANA』(矢沢あい先生)のごとく、ロックバンドへの思いがつまった、人気マンガの数々。音を「読む」だけで満足できなくなった、愛読者の方々の「実物」の「音」を聞きたいという、願いをかき立てた。そんな願いを、形にした映画やアニメで、ビートクルセイダーズや中島美嘉さんの「歌声」が現実となった。
ロックだけに限らない。『のだめカンタービレ』(二ノ宮知子先生)など、クラシック音楽を扱ったマンガにも近年力作、そしてそのアニメ化、映画化が相次いでいる。マンガの読者の方々がそれぞれに思い描いた、音、音楽は、さまざまな形で再現されてきた。
しかし、1920年代後期から30年代にかけ、映画が無声:サイレントからトーキーへと急速に移行した時期、例えば、クララ・ボウ、ポーラ・ネグリなど、名だたるサイレント映画の名優たちが、「声」に弱点、難点があったために、「名声」を失った。映画館のオーケストラも、弁士たちの多くも文字通り、職を失った。そして、サイレントを前提に、すでに、高度に発達していた映画の表現技法もまた、大きな変革に直面した。トーキー化で失われた、何か、も確かにあったのだ。
マンガが紙媒体から離陸し、そのマンガの「コマ」に本物の「音」が「載る」とき。
そのコマから「歌声はひびく」のだろうか。