崩れた本の山の中から 草森紳一 蔵書整理プロジェクト

「最後の文人」草森紳一は、2008年3月東京の自宅マンションで急逝しました。自室に遺されたのは山と積まれた3万冊余りの本たち。このブログでは、蔵書のその後をお伝えします。

「最後の文人」草森紳一は、2008年3月東京の自宅マンションで急逝しました。自室に遺されたのは山と積まれた3万冊余りの本たち。このブログでは、蔵書のその後をお伝えします。

時の流れ。空の色。

 メガホンを口にあて恋愛論『幸福論』を歌う椎名林檎嬢には間に合わなかった。しかし、白いドレスでピアノに向かい、弾き語る、『歌舞伎町の女王』には間に合った。
 『レ・ミゼラブル』を観たことも読んだこともない。その作者ヴィクトル・ユゴーについて知っていることもほぼなかった。
 草森紳一、氏の御蔵書の中にあった『私の見聞録―歴史の証言として』(稲垣直樹編訳、潮出版社、1991年、244頁)は、1840年代半ばから、1850年代にかけて、ユゴーが自らの体験を綴った「未定稿集」(Choses Vues=『目にした諸々の事』と題されて没後出版された)を、本書訳者が翻訳、再編集した書物である。
 1830年七月革命以降の「七月王政」下の、1840年:ナポレオンの「遺骨」の「葬儀」、そして1838年:オルレアン公の「交通事故死」の描写、『レ・ミゼラブル』にも影を落としたであろう刑務所訪問、囚人との対話、国王ルイ・フィリップへの讃辞。
 そして、ジャン・ヴァルジャンの俤さえ感じさせる、1848年二月革命をめぐる断章、リールの貧民窟探訪、若き日のカール・マルクスが「構造主義」の魁とも呼びうる手法で、怜悧に分析して見せた、『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日のクーデター』、とその、後のナポレオン三世、の暴挙に対して抵抗を挑むユゴー
 さらには、『人間喜劇』の文豪、オノレ・ド・バルザックへの追悼文、彼独自の宇宙論までを含む、13の美しく味わい深い散文と各文に付された親切な解題を中心に構成された本書。丁寧な翻訳と文章の選択の素晴らしさ、もちろん、ユゴーの筆力が唸る、読みやすく、静かな深みを帯びた一冊である。図書館などで是非手にとっていただけたら。
 ユゴーという、王党派から社会主義者までを包含する、右や左という単純な言葉ではくくれない、大人物の懐の深さと激動期のフランスの空気を、確かに伝えてくれる一方、山田風太郎先生的な「虚実皮膜」の匂いも、ここには存在する。淡々とした筆の運びのなかには、手記ともエッセーとも呼べない何か、同時代の当事者としての立場が強くにじみ出していた。
 1845年、孤独のうちに病床にあった、元文部大臣にして、アカデミー・フランセーズ会員、そして、ユゴーの二十年来の友人、アベル=フランソワ・ヴィルマンとユゴーの短い対話を描いた、おそらくは訳者により、会話の中の一節を引いて、
『空の青さを疑っても、友人の誠実な心は疑うな』
と題された12頁からなる、一章は切なくも、力強さに満ちている。下記、その対話の、ほんの一部ではあるが。

 <「わたしの心の中に苦しくてしかたのない場所があるのです」>(ヴィルマンの言葉、本書p.55より)
 <「無視するすべを学ぶことは、人生でいちばん難しく、またいちばん必要なことのひとつなのです。無視は守り、粉砕します。無視は鎧であるとともに、棍棒でもあるのです」>(ユゴーの言葉、本書p.61より)
<またしてもヴィルマンはためらったあと、こう言いそえた。
  「でも、わたしがお宅に行かなかったら?」
  「そのときは」とわたしは言った。「わたしのほうからお宅にやってきますよ」>(本書、p.64より)

 ユゴーもまた。「生きているという真実だけで幸福な」、強靱な論理をここで隠さない。
 空の色は、いつも、ただ美しい。
 あの歌詞の。画数の多い、漢字たちが読み辛い、そんな時でも。

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