崩れた本の山の中から 草森紳一 蔵書整理プロジェクト

「最後の文人」草森紳一は、2008年3月東京の自宅マンションで急逝しました。自室に遺されたのは山と積まれた3万冊余りの本たち。このブログでは、蔵書のその後をお伝えします。

「最後の文人」草森紳一は、2008年3月東京の自宅マンションで急逝しました。自室に遺されたのは山と積まれた3万冊余りの本たち。このブログでは、蔵書のその後をお伝えします。

ある人を待ちながら

 銀座で、女の人と待ち合わせをしたことがある。
 待ち合わせ場所には必ず早めに到着する。ぼくはそういうタイプだ。遅れるのがイヤ、というよりは、遅れそうになって落ち着かない気分を味わうのが、イヤなのである。
 だから、10分前、15分前に到着することも多い。しかたないから、周りをぐるぐると2、3度歩き回って時間つぶしをすることもしょっちゅうだ。
 相手が女の人となると、なおさらである。
 そのときは、前の用事の関係もあって、小一時間も早く、銀座一丁目の駅に着いた。さすがに、早すぎる。こんな時間からぐるぐる回っていたんじゃ、目を回しかねない。散歩でもしようか。でも、どこへ?



 ふと思い出したように、足は歌舞伎座の方へ向かった。その先あたりに、前から1度は訪れなくてはいけないと思っていた場所が、あるのだ。
 東京築地活版製造所跡。そこには、現在、「活字発祥の碑」という小さな御影石の石碑が建っているだけである。
 日本で初めて近代的な金属活字を製造したのは、幕末・維新の人、本木昌造(1824〜1875)である。長崎で通訳をしていた本木は、西洋の印刷技術に早くから強い興味を抱いていた。金属活字の鋳造にも何度も挑戦したが、なかなか満足が行く結果は得られない。最終的に、アメリカ人のウィリアム・ギャンブルを招いてその製造法を教えてもらったのは、1869(明治2)年のことだったという。
 その後、彼は活版印刷の会社を興し、信頼する平野富二を東京に派遣する。平野が開いた活字製造所は、やがて東京築地活版製造所へと成長した。日本活字文化の幕開けである。
 桐生悠三『活字よ、 本木昌造の生涯』(印刷学会出版部1984)は、本木を主人公にした歴史小説。小説だから、多分にフィクションも混じっているようだが、活字鋳造だけではない本木の活躍がよく描かれていて、たのしめる好著だ。
 パソコンで文章を書き、ブログで世間に発表できるようになっても、本木たちが活字にかけた情熱は、ぼくもしっかりと受け継いでいるつもりだ。その思いは、けっして変わることはないだろう。
 女の人と待ち合わせするときのあの緊張感が、けっして変わることがないように。

その先は永代橋 白玉楼中の人