崩れた本の山の中から 草森紳一 蔵書整理プロジェクト

「最後の文人」草森紳一は、2008年3月東京の自宅マンションで急逝しました。自室に遺されたのは山と積まれた3万冊余りの本たち。このブログでは、蔵書のその後をお伝えします。

「最後の文人」草森紳一は、2008年3月東京の自宅マンションで急逝しました。自室に遺されたのは山と積まれた3万冊余りの本たち。このブログでは、蔵書のその後をお伝えします。

巨匠放浪。

 スーさん。『釣りバカ日誌』シリーズでの、この呼び名がすっかり定着した感のある、三国連太郎氏。しかし、ひところまでは、あのざらついた16mmフィルムでのブローアップ、ネガポジ反転映像が記憶にこびりつく、原作、水上勉氏の傑作『飢餓海峡』(1965年)を筆頭に。重厚な印象が強い方だった。
 その『飢餓海峡』の監督、内田吐夢氏もまた。中村錦之助氏が『子連れ狼』に連なる、「暗さ」を帯びる前段として、欠かせなかった『宮本武蔵』五部作(1961-1965、ちなみに佐々木小次郎高倉健氏が演じている)、あるいは片岡千恵蔵氏が机竜之介を演じた『大菩薩峠』二部作(1957-1958)など、重厚長大な名作がまず思い浮かぶ。
 しかし、軽やか、かつ伸びやかな、単発作品にこそ、氏の映画の本領を見いだす方々も多い。戦前の出世作『限りなき前進』(1937年)、そして、フジTV版『銭形平次』で、ある年代以上の方々にはおなじみの大川橋蔵氏主演のあの傑作。狐の化身:葛の葉と、あの「陰陽師」阿部晴明の父ともされる、阿部保名との間の悲恋を描いた人形浄瑠璃芦屋道満大内鑑』などを題材とした、『恋や恋なすな恋』(1962年)。十数年前の居酒屋で、その魅力を語ってやまなかった方々の熱気をふと思い出した。



 草森紳一、氏の御蔵書の中に二冊もあった、内田吐夢氏の自伝とも呼ぶべき『映画人生五十年』(三一書房、1968年初版)の頁をめくると。氏の作品も人生も。幅が広い、どころではなかったようである。
 ピアノ工場での徒弟奉公、入営、「誤診」による兵役免除。そして、大正活映『アマチェア倶楽部』撮影中の谷崎潤一郎氏、との出会い。

 <大正も九年、十年―例のラッパズボンの流行だった頃の古い話、先生はホームスパンの渋い服の腕にスネークウッドのステッキを軽くかけ、奥さん同伴、佐藤春夫さんも一緒だった。ほかの二人はどうやら今東光さんと今日出海さんではなかったかと思う。>(本書p.38-39)

 その後も文字通り旅役者として巡業に参加したり、「青春放浪」を繰り返しつつ、戦前の日活・新興キネマに参加、そして満映で敗戦を迎える。戦後、十年に及ぶ中国生活。制作時期が氏の在留時にあたる、大陸中国制作の「ミュージカル」映画『白毛女』に、日本で接した、かつての同僚たちが、そのあまりのすばらしさに、氏のその作品への関わりを推量した、こともあったようである。
 戦後は東映にも在籍。押しも押されぬ巨匠であった。
 しかし。1968年初版の本書のあとがきは、斜陽に直面する映画産業へのこんな若々しい叫びで締めくくられている。 

<映画監督五十年の経験から学び得たことは、芸術も企業も共に欲張りである、という点で変りはないことである。
 私はそういう世界に、私の青春を過し、奇妙な放浪を続け、これからも放浪を続けそうである。
 映画産業を救え!
 コンピューター利用による質と儲けの保証がつけば、映画もまた勇敢に電子計算機にぶつかって行くだろう。
 順応と抵抗!
 映画はぶつかる。>(本書、p.285)

その先は永代橋 白玉楼中の人