先頃、亡くなられた米国俳優ポール・ニューマン氏。『ハスラー』、『スティング』など出演した名作は数多い。
幼い頃。淀川長治氏の解説付きでブラウン管を通して、出会った、初めてのハッピーエンドでない映画、それが。1967年、ニューマン氏の出演した『暴力脱獄』だった。
邦題に惑わされて、子ども心の浅はかさ、刑務所長と、微罪でぶち込まれたニューマン氏演じるルークのどっちが「わるもの」なのか、どっちが勝つのか、確かめようとしたのだが。どんどん判らなくなっていくのだ。微罪でぶち込まれ、刑務所内外での重労働、虐待を受けるルーク。反抗し、何度も脱獄を繰り返し余計に刑期を延長されてしまうルーク。そして三度目の脱獄でルークは、倒れ、治療を拒み、死んでいく。微笑んで。
わからなかった。今もわからない。
ルークは勝ってはいない。しかし負けてもいない。
「勝てないが、負けない言葉を」とかつて、大月隆寛氏は、書いていた。
近代ヨーロッパにおける、監獄=刑務所システムが、囚人に対して、体刑、つまり応報・外的懲罰で臨む態度から、反省、いわば調教・内面的支配を刷り込むシステムに変容した過程を詳細に描いたミシェル・フーコーの名著『監獄の誕生』(原著1975年、邦訳は1977年、新潮社より刊行)。
建築物としての刑務所が、もし仮に無人であっても、囚人に常に内的な圧力をかけ続ける「見張り塔」=一望監視装置(パノプティコン)を求め、形成していく流れの詳細な腑分けでも名高い。
この『囚人組合の出現』において描かれる、70年代前半の英国、米国で、「政治の秋」に巻き起こった「囚人たちの囚人としての権利要求運動」。ミシェル・フーコーはむしろ、自分の理論を、本書に描かれたような「囚人」たちを通して、現在形で学び続けたのかもしれない。
そして「ルーク」たちは今。
この12月に刊行された『貧困という監獄』(ロイック・ヴァカン著、菊池恵介・森千香子訳、新曜社、拙文BK1書評ポータルに投稿済)を眺め直して、冷めた珈琲を飲む。
去り際の微笑も、負けない言葉も。ほんの少し、格好付けることも。
今はもう冬だ。