崩れた本の山の中から 草森紳一 蔵書整理プロジェクト

「最後の文人」草森紳一は、2008年3月東京の自宅マンションで急逝しました。自室に遺されたのは山と積まれた3万冊余りの本たち。このブログでは、蔵書のその後をお伝えします。

「最後の文人」草森紳一は、2008年3月東京の自宅マンションで急逝しました。自室に遺されたのは山と積まれた3万冊余りの本たち。このブログでは、蔵書のその後をお伝えします。

吶喊。

 とっかん、と読む。明治期の日本帝国陸軍では「吶喊!」と将校が号令し、それに続いて兵たちが「ウワー」とときの声をあげて、突撃する。転じて、「突貫工事」の「突貫」もここから来たようである。遅くとも昭和期には「突撃!」という号令に変わっていたらしい。
 漢和や国語辞典をまさぐり、想像してみる限り、吶喊、というこの語には、声にならないもやもやを。いったん溜めて、一気に声にして吐き出す、叫ぶ、雰囲気が漂う。少し、軍隊用語には似つかわしくない気もするが。戦記マンガなどの白兵戦の場面で、目にした記憶は確かにある。
 吶喊、の音声は敵を威嚇するため、発せられる。明治5年(1872年)に公布された徴兵令によって徴募された、士族出身の「兵士」とは、全く違う資質を持つ、町人、農民出身の兵たち。彼らが初めて、本格的に吶喊したのは。明治10年(1877年)、西郷隆盛氏の元に拠った「不平士族」との戦い、西南の役、においてではなかったか。
 日本帝国陸軍、初めての近代戦、西南戦争は血みどろの内戦だった。そして、その戦中戦後にわたる、正規軍組織の急速な膨張は、数多くの平民出身兵の衣食住、待遇の悪化をも、もたらした。とりわけ、本来、旧江戸城を「親衛」すべき「選抜部隊」であるにもかかわらず、最前線への遠征を強いられ、実質的な恩賞も乏しい、銃後の家族の苦労を助けることもできず、靴下の支給さえも滞らされた、近衛兵たちの不満は、いや増しに増していた。
 明治11年1878年)8月の夜。時ならぬ吶喊の声が、現在の千代田区、お堀にかかる竹橋付近、近衛砲兵の兵営に上った。その「敵」とは。砲門を確保しようと、駆け寄る「叛乱」兵たち。だが、すでに大砲の火門には釘が打たれ、砲弾は運び去られ、使用不能の処置が講じられていた。この「竹橋騒動」の、一切を把握していた者とは一体誰だったのか?

 草森紳一、氏の御蔵書、『火はわが胸中にあり 忘れられた近衛兵士の叛乱 竹橋事件』澤地久枝、角川文庫、昭和55年(1980年)、現在は岩波現代文庫に収録、新刊入手可能)。当事者の末裔たちの元に赴いての丁寧な調査と、当時の公文書から小新聞に至るまでの、綿密な資料調査に基づいて活写された「揺籃期」の近衛兵たちは、後の日本帝国陸軍兵士とは、大きく異なる相貌を見せている。
 <兵たちは政治むきのものにかぎらずよく本を読み、借りた本は筆写して自家本をつくるのがひとつの流行でもあった。>(本書、p.84より)。
 鎮圧後、当局は、異例の早さで。同年10年15日、53人の兵を銃殺刑に処す。
 <刑場は日頃の演習地でもある。>(本書、p.312より)

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