阪神淡路大震災のとき、ぼくの実家は震度7の地域にあったから、2晩くらいは両親と連絡がとれず、安否もわからなかった。ようやく電話がつながったとき、当時は現役の外科医だった父が、「この3日間、縫いまくった!」と、こちらの心配をよそに興奮しまくりで話していたのが、忘れられない。
電気やガスもままならぬ被災地で、次々に訪れるケガ人の傷口を一心不乱に縫合しつづける父。その姿を思いながら、おそらくこの人はこの瞬間のために町医者になったのだろう、と思ったことだった。
人はなんのために働くのか。どのような理由で、ある「職業」を選ぶのか。町医者という仕事にけっして満足していたわけではなかった父だったが、あの瞬間の興奮ぶりは、生涯にわたるその不満を補って余りあるものだったのではないだろうか。
以来、自分はなぜ編集者を「職業」としているのかについて、考えるようになった。「職業」とは、一義的には生活の手段だ。そこから、さまざまな不満も生じてくる。父があのときに感じていたような高揚感を、編集者という「職業」から得られる日が、ぼくにもいつか、来るのだろうか?
しかし、本書を読んで感じるのは、現実の社会と常に関わり続けようとした、吉野の姿勢である。それが、タイトルに言うところの「職業」の意味なのだ。
「職業」とは、生活の手段であると同時に、社会とつながる方法でもある。後者を実感するとき、「職業」は大きな高揚感をもたらしてくれるのだろう。それは、ふつうの人間にとって、生涯の間にそう何度も訪れるような機会ではないのかもしれない。
ただ、そのチャンスが目の前まで来ているのに気が付かないような人間にだけは、なりたくないと思う。人が毎日働かなくてはならないのは、もしかしたら、数少ないその瞬間をとらまえるためだけなのかもしれない。