崩れた本の山の中から 草森紳一 蔵書整理プロジェクト

「最後の文人」草森紳一は、2008年3月東京の自宅マンションで急逝しました。自室に遺されたのは山と積まれた3万冊余りの本たち。このブログでは、蔵書のその後をお伝えします。

「最後の文人」草森紳一は、2008年3月東京の自宅マンションで急逝しました。自室に遺されたのは山と積まれた3万冊余りの本たち。このブログでは、蔵書のその後をお伝えします。

ヨーグルトの作り方

 子どものころ、遊びから帰ってきて家の冷蔵庫を開けると、なぜだかよく、カルピスがあった。ガラスのコップに氷を2、3個入れて、茶色いビンに入ったとろとろしたカルピスを指2本分くらい注ぐ。蛇口をひねって水道の水で薄めたら、人差し指でぐるぐるっとかき混ぜて、ぐいっと飲む。なつかしい、夏の風物詩だ。
 友だちから、「牛乳にカルピスを入れると、ヨーグルトみたいになるで」と教えられて、早速、ためしてみたことがあった。今から考えれば、当たり前の話の話だけれど、口をつけるなり「ほんまや!」と驚いたのも、少年時代のとぎれとぎれの記憶の、1コマだ。
 そんなカルピスの創業者が、もともとはお坊さんだったというのは、ちょっと意外な気がする。
 大阪は箕面で、住職の息子として生まれた三島海雲(1878〜1974)は、若くして中国に渡り、モンゴル人とともに暮らす中で、彼らが飲んでいる酸乳に目を付けた。帰国後、さまざまな苦労の末、乳酸菌飲料として開発したのが、カルピスだったというわけだ。カルピスという商品名も、サンスクリット語に由来しているというから、「初恋の味」も元を正せば、きわめてアジア的な飲料なのだ。



 草森紳一先生の蔵書の中から出てきた、矢野仁一『古中国と新中国 歴史学者の中国鳥瞰図』(1965)と小島祐馬『社会思想史上における「孟子」』(1967)は、ともに「カルピス文化叢書」の1冊である。装丁からして、なんとなくカルピスを思い出させる色遣いのこの叢書。あの「初恋の味」が、どうしてこんな中国関連の本を? と思いはしたが、三島海雲の経歴を考えれば、これまた当然の話なのかもしれない。
 この叢書には、巻頭に海雲自身による「刊行のことば」が掲げられている。
 「カルピスは、その発売以来、幸いに大衆の加護をえて今日の盛運に辿りつきました。私は考えました。盛運に酔うてはならない。恩を忘れてはならない。大きな事はできなくとも、一粒の麦でもよいから播こう。」
 そんな考えのもと、「全人類の文化の高揚をめざして」刊行されたのが、カルピス文化叢書なのだ。さすが、明治の企業家は、ふところが深い。なつかしいあの甘酸っぱい味が、こんなところで世の中に還元されていたとは!
 ただ、「一粒の麦」のたとえが、漢籍でも仏典でもなく、『聖書』にもとづくものである点だけ、海雲さん、もうひとがんばりして欲しかった気がするけれど。
 それにしても、「ヨーグルト」の作り方を教えてくれたあの友だちは、今ごろ、どこで何をしているのだろう。

その先は永代橋 白玉楼中の人