子どものころ、遊びから帰ってきて家の冷蔵庫を開けると、なぜだかよく、カルピスがあった。ガラスのコップに氷を2、3個入れて、茶色いビンに入ったとろとろしたカルピスを指2本分くらい注ぐ。蛇口をひねって水道の水で薄めたら、人差し指でぐるぐるっとかき混ぜて、ぐいっと飲む。なつかしい、夏の風物詩だ。
友だちから、「牛乳にカルピスを入れると、ヨーグルトみたいになるで」と教えられて、早速、ためしてみたことがあった。今から考えれば、当たり前の話の話だけれど、口をつけるなり「ほんまや!」と驚いたのも、少年時代のとぎれとぎれの記憶の、1コマだ。
そんなカルピスの創業者が、もともとはお坊さんだったというのは、ちょっと意外な気がする。
大阪は箕面で、住職の息子として生まれた三島海雲(1878〜1974)は、若くして中国に渡り、モンゴル人とともに暮らす中で、彼らが飲んでいる酸乳に目を付けた。帰国後、さまざまな苦労の末、乳酸菌飲料として開発したのが、カルピスだったというわけだ。カルピスという商品名も、サンスクリット語に由来しているというから、「初恋の味」も元を正せば、きわめてアジア的な飲料なのだ。
この叢書には、巻頭に海雲自身による「刊行のことば」が掲げられている。
「カルピスは、その発売以来、幸いに大衆の加護をえて今日の盛運に辿りつきました。私は考えました。盛運に酔うてはならない。恩を忘れてはならない。大きな事はできなくとも、一粒の麦でもよいから播こう。」
そんな考えのもと、「全人類の文化の高揚をめざして」刊行されたのが、カルピス文化叢書なのだ。さすが、明治の企業家は、ふところが深い。なつかしいあの甘酸っぱい味が、こんなところで世の中に還元されていたとは!
ただ、「一粒の麦」のたとえが、漢籍でも仏典でもなく、『聖書』にもとづくものである点だけ、海雲さん、もうひとがんばりして欲しかった気がするけれど。
それにしても、「ヨーグルト」の作り方を教えてくれたあの友だちは、今ごろ、どこで何をしているのだろう。