1945(昭和20)年2月25日夜、東京は神田、錦町から小川町界隈を、空襲が襲った。このとき、諸橋轍次『大漢和辞典』全13巻(大修館書店)の組版・資材一切が灰燼に帰したことは、出版史上、有名な話だ。当時、同書は第2巻の刊行を目前にしていたが、米軍機の爆撃による紅蓮の炎は、大正末年から20年をかけて進行中だったその全てを焼き尽くしたのだった。
諸橋は戦後、1950(昭和30)年に改めて刊行が開始された『大漢和辞典』の「序」で、そのときのことを次のように回想している。
「しかし当時は上下を挙げて国難に当って居った時であるから、別に悔みもせず、又落胆もしなかった。」
ほんとうにそうだったのだろうか? この一文に、ぼくはずっと腑に落ちないものを感じていた。
「本書ハ日本出版会ノ発行許可にニ依リ已(すで)ニ参千部ヲ刷了製本本工程中戦災ニ因リ弐千七百部を焼失セリ依ツテ不取敢(とりあえず)残リ参百部ヲ発行スルモノナリ」
当時、用紙の配給制限により、出版は許可制であった。だから、奥付には出版部数を明記するのが原則だったようだ。3000部の許可を得ながら300部しか発行できない事情を、奥付に記しておく必要があったのだろう。この紙片が、上下逆に貼られていることからも、現場の慌ただしい様子がうかがわれる。
この奥付には、印刷は5月1日、発行は5月8日と記されている。その間に大きな空襲の記録はないが、小さな空襲は毎晩のようにあったはずだ。その1つによって、製本所が炎上したのだろうか。その結果、残部のみを急遽、奥付だけ差し替えて発行することになったのだろう。
諸橋1人でさえ、2回も同じような目に遭っているのだ。当時、己の著作の出版を戦禍に襲われた人は、数限りなくいたに違いない。「別に悔みもせず、又落胆もしなかった」というのは、そんな状況の下だからこそ、リアルなことばではなかったか。
そう考えたとき、ぼくは、ところどころ殴り書きに近いこの奥付から、東京という街が焼けていく臭いを確かに感じたように思ったのだった。