たった一言なのに、相手の心に深く残って、生涯を大きく変えてしまうことば。そんなことばがあるとしたら、それは、愛のささやきだろうか、怒りのおたけびだろうか。それとも、憎悪の捨てゼリフだろうか?
土岐善麿(ぜんまろ)が石川啄木に出会ったのは、1911(明治44)年1月のことである。このとき、善麿25歳、啄木24歳。前年、善麿は「土岐哀果」の筆名でローマ字書きの処女歌集『NAKIWARAI』を、啄木は有名な第一歌集『一握の砂』を刊行したばかりだった。
ともに新進気鋭の歌人として意気投合した二人の交遊は、しかし1年余りしか続かなかった。翌1912(明治45)年4月13日、啄木が結核によってそのあまりにも短い生涯を閉じてしまったからである。
「この一年の間に、君が病中の僕に対してそそいでくれた友情が、友のすくない僕にとってどれだけ貴いものであったかは、君も知っていてくれるだろう。僕はそれを年をとるまで忘れたくないと思う。」
しかし、病魔は、啄木に「年をとる」ことすら許さなかったのだ。
啄木の死後、第二歌集の『悲しき玩具』をまとめ、出版したのは善麿である。遺稿の小説『我等の一団と彼』の発表に骨を折ったのも善麿だし、『啄木全集』全3巻の出版を実現したのも善麿だ。彼抜きには、この不世出の歌人の名声は、なかったと言ってもいい。
死の直前、善麿に遺稿を託した啄木は、「では万事よろしく頼む」と言った後、かすれた声で「おい、これからもたのむぞ」と付け加えたという。その信頼に、善麿は応え続けたのだ。
土岐善麿は、歌人として一家をなし、短歌史に自らの名を刻んだ。また、新聞人としては朝日新聞論説委員にまで栄達したし、学者としては田安宗武研究で学士院賞を受賞したし、推されて国語審議会の会長にもなっている。そうやって世俗的な成功を収めていく中で、彼は啄木のことを、何度も思い出したに違いない。
石川はえらかったな、と
おちつけば、
しみじみとして思ふなり、今も。
善麿のこの歌を読むとき、ぼくはふと、考えこんでしまうのだ。彼にだって、啄木を恨み、嫉妬した、「おちつかない」時があったのではないだろうか。それでも、啄木の示してくれた信頼を裏切ることは、できなかったのではないだろうか、と。
愛のことばでもなく、憎しみのことばでもない。人を長い時間かけて動かし、何かを成し遂げさせるのは、信頼のことばなのだ。