崩れた本の山の中から 草森紳一 蔵書整理プロジェクト

「最後の文人」草森紳一は、2008年3月東京の自宅マンションで急逝しました。自室に遺されたのは山と積まれた3万冊余りの本たち。このブログでは、蔵書のその後をお伝えします。

「最後の文人」草森紳一は、2008年3月東京の自宅マンションで急逝しました。自室に遺されたのは山と積まれた3万冊余りの本たち。このブログでは、蔵書のその後をお伝えします。

3世紀半の重み

 蔵書の中には、江戸や明治の和綴じ本も、少なからず含まれている。そのリスト化は、なかなかたいへんだ。基本的に汚れがひどく、製本が壊れかかっているようなものも多い。触るだけでも勘弁してほしいという人も多いだろう。さらに、きちんとした扉や奥付が備わっていないものも多く、書誌情報を見つけるのに苦労することもあるからだ。
 『士鑒用法(しかんようほう)』という本も、その1つだった。表紙はよれよれで、かなり変色しているが、ありがたいことに保存状態としては悪い方ではない。しかし、表紙をめくると、いきなり目に入ってくるのは「士鑑用法相伝之定」と書いた一葉である。
 「鑒」の字が違っているのは、昔の文献にはよくあること。「しかんようほうそうでんのじょう」と読むのだろう。なぜだかなつかしの「隠密同心心得の定」を思い出させるが、それはともかく、扉も何もない。すぐさま本文なのだ。



 では巻末はというと、こちらも「士鑑用法跋(ばつ)」という文章で終わっていて、奥付も何にもない。つまり、著者も発行年も発行所も、わからないのである。
 跋文の最後には、「遠山信景」の署名がある。ただ、跋文の筆者は本の著者とは違うから、遠山さんはこの本の著者ではない。また、「承応癸巳五月吉日」という日付も入っていて、本書の出版は、跋文が書かれたこの日からそんなに時間が経たないうちだろう、ということだけは、推測がつく。
 そう思って、よくお世話になる吉川弘文館の『歴史手帳』をめくってみると、「承応癸巳」とは承応2年=1653年だとわかった。江戸前期、三代将軍家光が没し、由井正雪の乱が起こった年の翌々年である。
 350年以上も前の本なのか! ほんとうだろうか?
 そう思ってネットで検索してみると、さすがにいろいろ情報がある。北条早雲の血筋を引く江戸時代の軍学者北条氏長が書いた兵法書の一種だという。神保町の誠心堂書店のホームページでもやはり承応2年刊となっていて、そこに載せてある画像と比較しても、若干の書き込みがあるほかは、まったく同じだ。
 どうやら、ほんとうらしい。いやはや、たいへんな本を持っているものだ、草森紳一という人は!
 現在のところ、蔵書の中で一番古いのは、この本である。

その先は永代橋 白玉楼中の人