崩れた本の山の中から 草森紳一 蔵書整理プロジェクト

「最後の文人」草森紳一は、2008年3月東京の自宅マンションで急逝しました。自室に遺されたのは山と積まれた3万冊余りの本たち。このブログでは、蔵書のその後をお伝えします。

「最後の文人」草森紳一は、2008年3月東京の自宅マンションで急逝しました。自室に遺されたのは山と積まれた3万冊余りの本たち。このブログでは、蔵書のその後をお伝えします。

31回目の重版

 自宅で仕事をするようになって以来、電気代を少しでも節約したいので、仕事中はできる限り、エアコンのスイッチを入れないようにしている。暑い盛りでも、エアコンの使用は昼下がりの数時間にして、あとは窓を開けて、風を通してなんとかしのぐ。
 もちろん、それだけで耐えられるような東京の夏ではない。そこで、気分だけでも涼しくなろうと取り上げてみたのが、中谷宇吉郎『雪』(岩波新書、1938)。雪の結晶の研究者としてだけでなく、随筆家としても評価の高い中谷宇吉郎の名著である。
 とはいえ、うだるようなこの暑さの中では、いかなる名文といえども、ぼくの頭を活性化はしてくれない。すぐに活字を追う気力は失せ、ぼうっと紙面全体を眺めているだけになってしまった。



 そこで、ふと気が付いたのが、この本の余白の広さである。物差しを取り出して測ってみると、天(上側)の余白は27ミリ、地(下側)の余白も同じ、コグチ(綴じていない側)の余白は13ミリ。同じ岩波新書でも、たとえば、ぼくのいとこにあたる阿部彩さんが2008年の11月に出した『子どもの貧困』だと、天地の余白はそれぞれ20ミリ、コグチは10ミリ。並べてみると、その違いは際だって見える。
 草森蔵書のこの本は、1973年の第32刷。奥付には途中で改版したとは書かれていないから、戦前の初版の紙面が、基本的にはそのまま受け継がれているのだろう。
 一般的に言って、最近の本は、かなり余白が狭くなっているように感じる。特に、コグチのアキは10ミリ以下のものも多くて、慣れるとそれほど気にならないのだが、こうやって昔の本と比較してみると、余白の狭い本は、いかにも息苦しく感じる。
 すべてに余裕のない現代社会が、本の紙面にも影を落としているのだろうか。
 そんなことを感じながら『雪』を眺めているうちに、また別のことに気が付いた。ノンブル(ページ番号)があまりにも小さいのだ。ページによっては、判読に困ってしまうくらいに。
 活版印刷の時代、鉛でできた印刷用の原版は重いしかさばるので、保存には、紙型(しけい)というものを用いた。簡単に言えば、紙粘土のようなもので型をとっておくのである。重版の際には、溶かした鉛をその型に流し込んで、版を改めて作り直すのだ。
 現在では活版印刷はほとんど行われていないから、ぼく自身は、紙型を使った重版の経験はない。しかし、先輩方によると、紙型はくり返し用いるたびに、わずかずつだが縮むものだったらしい。
 『雪』も、重版のときにはやはり紙型から版を作り直したことだろう。この本は、31回目の重版。ノンブルのあまりもの小ささは、紙型の縮みによるものなのか? とすれば、余白が広く見えるのも、そのせいもあるのかもしれない。
 とすれば、この紙面にはやはり、時の流れが刻みつけられているのだ。本とは、さまざまな意味で、時代を映す鏡なのである。

その先は永代橋 白玉楼中の人