崩れた本の山の中から 草森紳一 蔵書整理プロジェクト

「最後の文人」草森紳一は、2008年3月東京の自宅マンションで急逝しました。自室に遺されたのは山と積まれた3万冊余りの本たち。このブログでは、蔵書のその後をお伝えします。

「最後の文人」草森紳一は、2008年3月東京の自宅マンションで急逝しました。自室に遺されたのは山と積まれた3万冊余りの本たち。このブログでは、蔵書のその後をお伝えします。

楽器のせいにしたくなる

 学生時代、ぼくは大学のオーケストラで、ヴィオラという楽器を弾いていた。ヴァイオリンより少し大きく、チェロよりはだいぶ小さい、目立たない、地味な楽器である。



 といっても、ぼくは生来の不器用だし、ひとに何かを教わるということが嫌いだし、根気よく練習するという「才能」もないから、へたっぴである。だから、増井敬二著『日本のオペラ 明治から大正へ』(民音音楽資料館、1984)の中の次のようなエピソードには、大いに感じるところがあった。
 日露戦争のころ、アメリカへ渡った高折周一という日本人音楽家がいた。ある日、彼はポーランドの名ピアニスト、パデレフスキのコンサートを聴いて、衝撃を受ける。
 「演奏会終了後高折はマネージャーのところに行って、そのピアノにさわらせてくれと頼む。あまりの美しい音で楽器が特別製だと思ったというのだが、これも自分で音を出して普通のピアノであることを確かめ、いかに自分を含めた日本の音楽界のレベルが低いかを知ったのである。」
 自分と他人の出す音があまりに違うのは、楽器のせいじゃないかと思いたくなる。でも、うまいヤツの楽器を借りて弾いてみても、やはり自分のまずい音しか出てこないし、自分の楽器をうまいヤツに弾いてもらうと、まぎれもなくいい音が流れ出てくる。楽器とは、不思議なものなのだ。
 しかし、高折周一がエライのは、それでもめげずに音楽を勉強して、やがて作曲家、指揮者として日本に帰ってきたことだ。1914(大正3)年、帝国劇場でプッチーニの名作オペラ『蝶々夫人』を、ダイジェスト版ではあれ、おそらく日本で初めて上演したのは、彼なのである。ちなみに、そのときタイトル・ロールを演じたのは、ともにアメリカに音楽留学した寿美子夫人だったという。
 本書によると、この前年の6月、帝国劇場では、モーツァルト最晩年の傑作オペラ『魔笛』が日本初演された。こちらもダイジェスト版で、日本語上演である。6月7日付"Japan Times"は、次のように評したという。
 「モーツァルトは死に、『魔笛』本来の魅力ある音楽は完全に忘れ去られた。西洋のオペラとして日本の茶番劇の舞台に改造されたものはご免である。」
 それから約100年。先人たちの想像を絶する努力の結果、いまの日本の西洋音楽がある。
 だとすれば。その裾野の端のそのまた端っこに位置するぼくのヴィオラも、あきらめてしまっては、先人たちに申し訳ない。30年後、40年後には、ちっとはマシな音が出せるようになっていることを夢見て、今日も練習をすることにしましょうか。

その先は永代橋 白玉楼中の人