出版社に勤めていた17年近くの間に、ぼくは50冊以上の本を作った。いわゆる単行本として市場に送り出したものだけでも、30冊くらいにはなる。でも、重版がかかる本を作ることは、なかなかできなかった。
いわゆる専門書出版社だったから、何十万部も売れる本を作りたいわけではなかった。初版数千部。ただ、それをきちんと売り切って、重版がかかれば、商品としては成功。でも、それがむずかしい。いろいろ考えながら本を作るのだけれど、重版はかからない。初めてその夢がかなったのは、15冊めくらいのことだった。
墨西哥(メキシコ)に渡って理想社会を築き上げようと夢見る書生、純之助。資産家の令嬢、お吉に見そめられた彼は、その情にほだされ、また墨西哥渡航の費用を出してくれる見込みもあって結婚するが、そのために、男子一生の夢と、家庭の平和という現実との衝突に悩まされることとなる……。
内田魯庵の小説としては、『社会百面相』が有名で、ぼくも岩波文庫の古本を買って読んだことがある。でも、「小説」としては、あまり感心しなかった。明治の社会風俗を描いているのはおもしろいけれど、登場人物が生きている気がしなかったのだ。
だが、『くれの廿八日』は、ちがう。もちろん、111年後のぼくたちが、純之助の夢に共感などできるはずもない。ただ、夫の愛を感じたいがために自己崩壊寸前にまで至るお吉の姿や、夢を諦めたが故に純之助が感じる友人たちとの温度差、そして、「まだまだこれからが難しい」という結びの一文。
明治の文学には、ぼくなんかが読んだことがない傑作が、まだまだたくさんあるんだなあ、と感じ入ったことだった。
本書は、岩波書店創業80年のリクエスト復刊。こんな作品を、文庫で読ませてくれる岩波書店は、ほんとにありがたい。そう思って奥付を見てみたら、次のようにあった。
1955年12月20日 第1刷発行
1993年9月22日 第2刷発行
重版をかけるまで、実に38年! こういう、息の長い出版活動には、頭が下がる。
2040年とか2050年とかいう未来。ぼくが担当した本の中から、重版がかかる本は、出るのだろうか……
現在、発売中の古書雑誌『彷書月刊』6月号(彷徨舎)に、南陀楼綾繁(なんだろう・あやしげ)さんが当プロジェクトの活動をご紹介くださいました。ありがとうございます。ぜひご覧ください!