崩れた本の山の中から 草森紳一 蔵書整理プロジェクト

「最後の文人」草森紳一は、2008年3月東京の自宅マンションで急逝しました。自室に遺されたのは山と積まれた3万冊余りの本たち。このブログでは、蔵書のその後をお伝えします。

「最後の文人」草森紳一は、2008年3月東京の自宅マンションで急逝しました。自室に遺されたのは山と積まれた3万冊余りの本たち。このブログでは、蔵書のその後をお伝えします。

その一瞬のためだけに

 ほんとうに重要なことを、ことばにするのはむずかしい。
 胸の奥のそのまた奥底にある、自己形成の根幹に関わるような、とても大きなできごと。そこから生じた、喜怒哀楽のもろもろの感情。一度、きちんと語ってみたい、だれかに聞いてもらいたい。ふだんからそう願っているのに、何かの機会にいざ、ことばにしようとすると、ただ茫然と押し黙るしかない。
 そんな経験は、ないだろうか?



 高橋徹著『明石原人の発見 聞き書き直良信夫伝』(社会思想社現代教養文庫1984)によれば、明石原人の発見者、直良信夫(なおら・のぶお)は、どうしても自叙伝を書きたがらなかったという。考古学者・古生物学者として知られ、一般向けの啓蒙書の執筆も数多くこなした直良には、晩年、自叙伝の執筆依頼が頻繁にあった。本書の著者、高橋自身も、声をかけたことがある。しかし、
 「いろいろと考えてみましたが、自分の事を自分で書く事のつらさをつくづくと感じました。」
 と言って、筆を取ることはなかった。そこで、聞き書きとして誕生したのが、本書なのだ。
 直良の人生は、苦難の連続である。1902(明治35)年、大分県内の貧農の次男として生まれ、学問を志すものの、進学する経済的な余裕などあるはずもなく、学歴のないままにアマチュア考古学者となる。明石原人の骨を発見したのは1931(昭和6)年のことだが、学界からは冷笑を浴びせられただけだった。後、上京して早稲田大学の教授の個人助手として研鑽を積み、さまざまな業績を挙げる。しかし、学閥という背景を持たぬ直良の研究は、根拠のない批判にさらされるか、全くの無視をもって遇されるのが常であった。
 そんな苦労の末、早稲田の教授になったのが1958(昭和33)年。前年には同大学で博士号を取得しているが、それも所属の理工学部ではなく、文学部の審査によるものだった。
 立志伝中の人物、と呼ぶには、あまりにも苛酷。そんな学問的生涯を送った直良が、自叙伝を書きたがらなかったのも、当然のような気がする。
 しかし、ことばにしなくては、やはり何ごとも伝わらぬ。――それもまた事実なのだ。
 そこに、伝記というものの存在価値がある。ことばにならぬものを、ことばにする。そこには誤解もあろう、脱落もあろう。ときには意図せぬ捏造だって、あるかもしれない。ただ、その合間から、ほんのひとかけらの「真実」が、顔をのぞかせることがある。
 ぼくたちは、ただその一瞬のためだけに、ことばを使って何かを伝えようとしているのかもしれない。

その先は永代橋 白玉楼中の人