時は大正。小説家の村岡は、友人野々村の妹夏子と知り合い、二人は恋に落ちる。やがて、帰国後の結婚を約束して、ヨーロッパへ旅に出る村岡。二人の愛を語る手紙は、ユーラシア大陸を何度も往復する。半年の後、帰国の途についた村岡は、しかし香港の手前の洋上で、夏子が流感で急死したという電報を受け取る……
武者小路実篤の『愛と死』である。あらすじだけを書けば、単なるメロドラマだ。もっとも、武者小路の文章はあまりに武骨だから、メロドラマにもならないくらいだ。
そうして中身はというと、何十年もかけて桃の林を作り上げた男(表題作)、面壁九年の修行に徹する僧(「だるま」)、中国古代の聖人の孤高な生きざま(「尭」)の3編。いずれ劣らぬ、信じる道をひたすら歩み続ける人間を描く、直球勝負の作品である。現在から見ると、さすがに古びた感じがしてしょうがない。
ただし、奥付によれば本書の発行部数は2万部とある。こういう直球勝負の作品を、渇きを癒やすかのように求めた時代だったということか。
いや、ぼくだって、実は武者小路の直球に、みごとに胸の真ん中を射抜かれたことがある。
『愛と死』を読んだのは、たしか19歳のころだ。17歳の冬に親友の死にあって以来、愛する者の死ということに敏感な青春を送っていたぼくにとって、最後に現れる次のような一文は、どうにも忘れられないものとなったのだ。
「死んだものは生きている者にも大なる力を持ち得るものだが、生きているものは死んだ者に対してあまりに無力なのを残念に思う。」
逝ってしまった者は、残された者をいつまでも元気づけてくれる。それなのに、残された者は逝ってしまった者のために、いったい何ができるというのだろう?
武者小路の武骨な作品のいくつかは、今でも文庫で手軽に読むことができる。『愛と死』も、新潮文庫で健在だ。いつの時代も、直球勝負の需要は尽きないようである。