崩れた本の山の中から 草森紳一 蔵書整理プロジェクト

「最後の文人」草森紳一は、2008年3月東京の自宅マンションで急逝しました。自室に遺されたのは山と積まれた3万冊余りの本たち。このブログでは、蔵書のその後をお伝えします。

「最後の文人」草森紳一は、2008年3月東京の自宅マンションで急逝しました。自室に遺されたのは山と積まれた3万冊余りの本たち。このブログでは、蔵書のその後をお伝えします。

蔵書をいったいどうするか(番外編5)草森紳一記念資料室オープン。乾杯は十勝の牛乳で!

 蔵書整理プロジェクトの私たち、いや草森さんは本当にラッキーな人!

 待ちに待った記念室オープンは、故郷音更町の開町110年と帯広大谷短期大学50周年、それに大学内のオープンカレッジ開講10周年を記念する特別事業として実現した。そんな大切な節目の年に、みんなの努力と草森さんの寅年が重なって……本当に不思議!

 11月29日に、帯広大谷短期大学で開館記念セレモニーと記念講演会(講師 椎根和氏)が開催されるというご案内をいただき、一年ぶりに音更を訪問した。子どもたちはこの日はどうしても無理で残念だったが、年末進行の追い込みで超多忙の編集者のなかにも「行けない!」と残念がる人も。でも、遠い北海道の地にもかかわらず東京からの出席者は、蔵書整理プロジェクトの仲間を中心に8名。う〜〜ん、皆なかなかの情熱です。

 朝方に雪が降ったらしく、飛行機の窓から見下ろす十勝平原は銀色に輝いている。すばらしいお天気で、気温は0度。空港を出ると、きりっとすがすがしい冷気に包まれた。
 空港から大学までは、車で約40分。3時からのセレモニーには、大学や音更町帯広市の関係者に、弟の英二さんやご友人の姿も。
 中川学長が「多くの人がつながる文化の拠点に」と、音更町長も「草森さんの魂が帰ってきた。末永く大事にしていきたい」とごあいさつされて、心の底からありがたく、本当に幸せな本たちと思った。 乾杯の発声は私の役目だったのだが、アルコールではなくて十勝の牛乳の、なんと美味しかったこと!

 記念資料室は、大学の4階。左手のガラスケースには、『本が崩れる』の生原稿や膨大な赤字が入ったゲラ、草森さんの写真などが飾られていて、壁面には草森さんの70年をたどる年表。手塚治虫の作品を語る草森さんの映像も流れているし、コーヒーメーカーだって置いてあるし。右手の書棚には、東京であれほど埃だらけで汚れていた本たちがすまして並んでいた。なんだか、夢見心地の気分になる。

 4時からは、草森さんの友人で、元「hanako」編集長、椎根和さんの講演が始まる。この講演「真の知の巨人」については、次回に。

草森紳一記念資料室について
 寄贈された約3万2千冊は、東中音更小学校(廃校)に保管され、この中から随時2000冊が記念室に展示され、自由に閲覧できる。月によって記念室の開館日時が異なるが、12月は月、水、金の13:30〜17:00。お問い合わせは、帯広大谷短期大学生涯学習センター(0155-45-4600)かhttp://www.oojc.ac.jpまで。

蔵書を一体どうするか(番外編4)いよいよ草森記念室が

 なんとまあ、前回のブログは5月にアップして、それから約半年も経ってしまった。
 今年は気温35度前後という異常な暑さの夏でしたが、みなさま、いかがお過ごしでしたか。

 北海道も、まったく北海道らしくない暑さと湿度の夏だったとか。それでも、音更での蔵書整理プロジェクト第三部は着々と進行中。

 ようやくの秋晴れの日々とともに、草森さんのご友人から十勝毎日新聞の切り抜きが届いた。10月13日付なので、「来月下旬開設へ」という見出しは、11月下旬のこと。記事には、記念資料室の様子や、廃校(旧東中音更小学校)に保管された約三万冊の蔵書整理は今後、地元文化人や地域の方の力を借りながら進められることなどが載っている。本当にありがたい。門前仲町の本の洞窟から、整理へ、そして目録入力への微速前進の日々がようやくここまで……。新聞社の許可をいただいたので記事をアップします。北海道新聞にも大きく取り上げていただいたそうで、本当にうれしい。

 私はこの夏、汗をかきかき、『草森紳一回想集(仮題)』編集に追われた。
 東京での蔵書整理が終わったあと、思い切ってご友人や編集者の方々にお声がけをしたところ、なんと70名余りの方からご寄稿いただけることになり、ありがたいやら、忙しいやら、責任が重くてちょっと不安、やらの夏を過ごした。
 いただいた原稿は、みんなすばらしく、胸を打つ読みごたえのあるものばかり。 寅年の年内に刊行予定だが、自費出版なので、できるだけ多くの方に読んでいただける方法はないものかと思案中。何か良いアイデアがあればお教えください。回想集のお問合せは info@harumi-inc.com へ。

NO MORE BOOKS! 14 音更の空気を吸って本達は体を伸ばした

約一年と四か月ぶりに寄稿させて頂きます、というのも、十月初旬にたった一泊ですが蔵書の寄贈先となった帯広大谷短期大学を訪問し、開館前の新しい図書室と、残りの本の新しい保管先となった廃校(東中音更小学校)の様子を一番乗りで見学してきました。



私は昨年の夏以降、蔵書プロジェクトの進行について間接的に聞くだけでしたが、田中教授を始めとするここで尽力下さった皆さんから直接お話を聞くほどに、こんな誠心誠意を尽くして下さる方々のいる場所にあの蔵書たちが辿り着くとは夢にも思わなかったなぁ・・・という驚きの気持ちで、うまく感謝の言葉がみつかりませんでした。また、この蔵書の受け入れと図書室の整備には、父の生まれ故郷である音更町が寛大な援助の手を差し伸べてくださいました。

写真は、一部の本が仮に移された図書室です。社会福祉科の斉藤先生が「何かいやなことがあったら、あそこへ行きましょう!」「コーヒーが入れられるようにできたらいいなぁ」と仰っていたのにも、心がほっと温かくなりました。

音更の澄んだ空気を吸って新しい本棚に移動した彼ら蔵書は、どこか晴れ晴れとしてみえます。私が訪問した際には写真や芸術分野の本だけが仮に陳列されていましたが、たった一冊、二冊をふと手に取るともうすぐに時が経つのを忘れてしまう。自分が帯広にいることも。

父が亡くなった時、瓦礫の山のような蔵書を前に、別にこれらの本が残らなくてもいいじゃないかと思いました。物理的に困難なだけでなく、私は父の魂をいつもそばに感じる自信があって、それだけで十分だったのだと思います。けれどこの一年、私は父の声に耳と心を傾ける機会が減り、そして人間の記憶の儚さ・頼りなさに気が付いた時、父の蔵書がすべて故郷の音更町に残されたことをとても有難く思いました。それは私に父の存在を、言葉にもならない迫力で甦らせてくれます。帯広大谷短大の図書室は、私がもう一度父から何かを学び取る機会を与えてくれる、学校のような場所になるのかもしれません。そしてそこを訪れた誰もにとって、草森紳一について関心があろうとなかろうと、自由気ままに巡り逢う本との運命の場所になる。東京には物が溢れているけれど、ここ帯広では、雄大で何もない風景のなかにある短大の一室で本達が、誰かの手に取られて始まるその出会いをいまかいまかと待ってます。

蔵書をいったいどうするか(番外編3)それぞれの5月

 草森さんのとても親しかった友人のひとり、ジャーナリストのばばこういちさんが4月9日に亡くなられた。
 2008年6月の<草森紳一を偲ぶ会>のスピーチで、
「非常にぼくは腹が立っている。5歳も年下の男が、共に90歳になっても生きていこうと言っていたにもかかわらず、さっさと死んでしまう。〜〜〜息子さんもお嬢さんも、これほど多くの人から愛された父親をもったことを誇りに思って生きて行っていただきたい」と、まっすぐ声を震わせ言った人だ。
 草森さんが最初に体調を崩した5年前の5月の連休に、鎌倉のばばさん宅で静養させていただいている。新緑と美耶子夫人のおかゆと。至福の時間だったに違いない。
 これからは、頼りにさせていただきたいこといっぱいあったのに。無性に寂しい。

 蔵書整理第二部(目録入力)が完了してから丸一年が経つので、『文字の大陸 汚穢の都』(大修館書店)の出版祝いも兼ねて、入力仲間たちと久しぶりに集った。
 場所は、Living Yellowさんご推薦の龍家菜。昨年の打ち上げは、お座敷に座り込んでの中華だったけれど、今年は、大きな円卓を囲む。

 連休直前というのにまだまだ寒くて雨も降っていた。仕事が終わらないのか、直前になって「行けません!(泣)」というメールも入ったけれど、懐かしい顔が10人揃った。
 あの倉庫での入力の日々と違って、職場から駆けつけた人は、ネクタイをしていたり(当たり前?!)、きりっとオシャレなオフィス・スタイルだったりで見違える。手に持っているのは書類用バッグで、パソコンではない。

 ふっと、あの秘密のアジトでの日々を思い出す。
 秋から春がめぐるまでの季節、毎週毎週アジトに通って、段ボール箱から本たちを取り出しては、書名や著者名、版元、出版年まで入力する。一体何冊あるのか・・・気の遠くなるようなはてしない作業・・・。入力しているとき、トントンと階段を上がってくる足音がすると、だれが現れるのか、分かったものだ。

 1年ぶりの集いの話題は、独立して引越しして再出発という人、仕事が減って困ったという人、本を出しましたという人、職場のストレスを聞いてという人などそれぞれで・・・遅くまでよくしゃべり、よく飲んだ。
 数日前に北海道から届いた「開設準備が本格化」の十勝毎日新聞の記事も回し読み。本当にここまで来れたのは、入力仲間の支えがあってこそ。それに、草森マジックの後押しも?!

 草森さん、ばばさん、これからも見守っていてくださいね。

電車にのって本屋さんへ行く

 久しぶりに都会へ出る機会があったので、1週間ぶりに電車にのって池袋まで行って、本屋さんをのぞいてみました。目的はもちろん、草森紳一『文字の大陸 汚穢の都――明治人清国見聞録』(大修館書店)です。



 といっても、買い求めようというわけではありません。自分が編集担当した本なので、先週のうちに出版元からお送りいただいています。でも、できあがった本が本屋さんの店頭でどんな感じに置かれているのかなあ、と気になるのが、編集者の習性というものなのです。
 早速、ジュンク堂さんで4階の「中国史」のコーナーに1冊、置いてあるのを発見! さらには、同じ階のエスカレーターのそば、新刊を集めたところにも2冊、置いていただいていました。ありがとうございます!
 リブロさんに行ってみると、ここでも2冊発見。こちらは「日本史」のコーナー、しかも、いま話題の日清・日露戦争関係の本を集めた一画に置いていただいていました。内容としては、日清戦争より前、日本人が初めて中国の大地を踏み始めたころのことが書いてあるのですが、プレ『坂の上の雲』のような興味を持っていただけるのかもしれません。
 自分の担当した本が、書店員の方々の手によって、それぞれのお考えで棚に並べられていく。それはとてもありがたいことですし、その本の受け止め方について新しい視点から教えられることもあって、編集者としてはとても貴重な経験です。
 伊藤博文原敬榎本武揚といった、近代日本の国家を背負っていった人たちは、まだ若かったころに、「中国」というものを体験しています。そこで彼らは何を見て、何を感じたのか?
 本書では、草森先生の筆が、執拗なほど粘り強くこの問題に迫ります。日中関係が日々、新たな局面を切り開いている現在、「近代日本人の中国原体験」を考えることは、さまざまな示唆を私たちに与えてくれるはずです。
 私がこの本の原稿を最後にいただいたのは、先生がお亡くなりになる1か月ほど前のことでした。本書を開いて広がってくるのは、生涯をかけて「中国」なるものと向き合い続けた草森先生が、最後に行き着いた場所からの眺めなのかもしれません。

蔵書をいったいどうするか(番外編2)副島種臣関連資料は、九州の佐賀へ

 草森さんの大きなテーマの一つは、副島種臣(そえじまたねおみ)だった。佐賀出身の明治の政治家で、蒼海(そうかい)という号をもつ漢詩人で書家でもある。

 1990年の3月、箱根の老舗旅館、松坂屋に行きたいという事で2人でお供。旅館の玄関を入ると、巨大な書「紉蘭」が待ち受けていたかのように眼前に現れた。草森さんはうれしそうに見入るばかり。何代目かの御主人が「ずっと飾ってはいるものの、読み方も意味もわかりません」と。「じんらんと言ってね、蘭の花の帯のことですよ」と草森さんが応じた事を思い出す。
 (このときの写真は、圧倒されてしまったせいか、ピンボケか、書の上部が切れたものしか残っていない。なんということ!)
その後、文芸誌『すばる』で「紉蘭 詩人副島種臣の生涯」が始まり(91年7月号〜96年12月号)、『文学界』で「薔薇香処 副島種臣の中国漫遊」(00年2月号〜03年5月号)を連載するが、次号完結、次号完結とされながら、結局、完結しないままになってしまった。

 さてその副島に関する資料類をどうするか。
 大型のルーズリーフのファイル3冊は、江戸時代から始まる草森作成「蒼海年譜」で、細かい文字がびっしり並ぶ。貴重な和綴じの『蒼海全集』6冊にも書き込みがいっぱい。執筆ノートの類や、『すばる』『文学界』連載時の生原稿、取材旅行の際に撮影した書の写真アルバム、膨大な資料コピー等、しめて段ボール箱26箱!
 迷った末に、北海道の帯広大谷短大にもご了解をいただいて、副島関連資料は元草森さんの担当編集者で、副島の出版を視野に入れて数年前故郷佐賀へお帰りになった古川英文さん(現在・佐賀城本丸歴史館副館長)に委ねることになった。今後、古川さんと福井尚寿さん(佐賀県立博物館・学芸員)の調査を経たうえで、重要なものは博物館に保存されることになる。
 北海道と九州で草森さんの遺品が保管されるわけで、双方の交流でもできればすばらしいわとまたまた夢のようなことを考えつつ、佐賀県立博物館のHPを見ていた。
 なんと佐賀七賢人のうちの一人は「北海道開拓の父」! 島義勇という名の人だ。
 またご縁が、とさっそく古川さんにメールすると、こんな返信が。
 「島義勇については草森さんが最初に知った偉人だとおっしゃっていました。実は副島種臣の従兄でもあり、さすがの草森さんもそのことは後に知ったのですが。草森さんが副島におとらず関心を示しておられた枝吉神陽(副島の実兄)などなど、草森さんの佐賀の話は止まりませんでした。(中略)あんなに佐賀のことをおもしろく聞かされなかったら、私が佐賀にもどることはなかったでしょう」

 副島資料の行く先も、草森マジックによるものだろうか。巡り巡ってすべてにご縁が・・・。本当におもしろくて不思議! 不思議でおもしろい!

730回の夜と朝

 草森先生がお亡くなりになってから、まる2年。たった730回、夜と朝との交替を見送ってきただけとは思えない、濃密な時の流れでした。
 夏の花火をともに見上げ、冬の寒さをともにしのいだ蔵書整理プロジェクトの仲間たちも、それぞれの生活へと戻っていきました。あれほどの膨大さでぼくたちを圧倒し続けた段ボールの山も、秋の一日、その巨体を振るわせながら旅立ち、いまは北の大地の片隅で、春の訪れを待っています。
 そして、ぼくはと言えば……。
 かつて担当していた『月刊しにか』という雑誌で草森先生にお願いしていた、「肘後集――明治人の清国見物」という連載を、ようやく、単行本に仕上げることができそうです。『文字の大陸 汚穢の都――明治人清国見聞録』というタイトルで、大修館書店より発売されます。順調にいけば、書店に並ぶのは、15日ごろになるようです。
 そもそもこの連載は、先生がお元気でいらっしゃれば、2008年のうちに本になっていたはずでした。それが、突然の訃報によって中断され、2年の歳月をくぐり抜けてこうして世の中に出ていくわけです。
 昨日、本文を文字校了にして、ようやく、1つの仕事を終えた感じがしました。お世話になった先生に、最低限のお礼だけはできたかなあ、と。
 あとは、1人でも多くの方がこの本を手に取り、草森ワールドをなつかしく楽しんでくださることを祈るのみです。

その先は永代橋 白玉楼中の人